🔰 はじめに:悟りって本当にあるの?
「悟りって、本当にあるの?」
そう思うあなたの感性は、むしろ健全です。
スピリチュアルや宗教的な話に対して、懐疑的であることは、ごく自然な防衛反応でもあります。
この記事では、「悟り」というものが幻想や自己暗示ではなく、
誰もがすでに毎晩体験している“ある現象”を通じて説明できることをお伝えします。
その“ある現象”とは──「熟睡」です。
📋 この記事の内容と流れ(+ポイント)
1. 私たちは毎晩「3つの意識状態」を経験している
└ 覚醒・夢・熟睡、それぞれに異なる特徴がある
2. 「熟睡していた」と、なぜわかるのか?
└ 何もないはずなのに、「私は寝ていた」と確信できる理由とは?
3. 「ただ在る」──悟りとは、その静けさ
└ 世界や思考が消えても残る、“在る”という気配
4. 悟りとは終点ではない。始まりである
└ 一瞥体験から始まる本当のプロセスと、ムクティ(解放)までの流れ
5. まとめ:「悟り」は、すでに触れている
└ あなたは毎晩、その入り口に立っている
- 私たちは毎晩「3つの意識状態」を経験している
夜になると、私たちは自然と次の3つの状態を行き来しています:
• 覚醒している状態(思考や感覚がある)
• 夢を見ている状態(記憶やイメージの世界)
• 夢すら見ない「熟睡」の状態(完全なる沈黙)
多くの人が意識の変化としては「寝た/起きた」しか認識していませんが、
この3つはそれぞれ質の異なる意識状態です。
特に注目すべきなのが、「熟睡」の状態です。
- 「熟睡していた」と、なぜわかるのか?
朝起きたときに、あなたはこう思うはずです。「よく寝たな」「熟睡していた感じがする」
けれども、熟睡中は「あなた」という感覚はどこにもなかったはずです。
• 思考も感情もなかった
• 身体感覚もなかった
• 自分という存在の輪郭さえ、消えていた
それにもかかわらず──なぜ「私は熟睡していた」と言えるのでしょう?
そこには、記憶では説明できない“知っている感覚”があります。
まるで、すべてが停止していた中にも、「何か」が“在った”ような感じ。
この逆説的な体験の中に、意識の本質があります。
- 「ただ在る」──悟りとは、その静けさ
熟睡中、世界も思考も存在しない。
それでも、なぜか「自分は寝ていた」と知っている。
この「知っている感じ」が、“意識の奥”にあるただ在る存在の証です。
悟りとは、何かを体験したり、高次のビジョンを見たりすることではなく、
すべてが静まったときに残る「ただ在る」意識への気づきです。
• 覚醒・夢・熟睡のすべてに通底している、変わらない“それ”
• 何もなくても「在る」と感じる、説明できない存在感
• それはすでに、毎晩あなたの中に訪れている
- 悟りとは終点ではない。始まりである
世の中では「一瞥体験(ちらっと見る)」という言葉がよく使われます。
たしかに、それは悟りへの入口として起こることがあります。
しかし、それはゴールではありません。「私は在る」という気づきのあとにこそ、
本当の“プロセス”が始まります。• 気づきが深まり、「私」という感覚との同一化がほどけていく • 思考の背後に沈黙が広がっていく • やがて「在る」さえも超えていく
この深まりは、ムクティ(解放)と呼ばれます。
悟りはショックや体験ではなく、存在そのものの沈黙へと向かうプロセスなのです。
- まとめ:「悟り」は、すでに触れている
• 悟りは、特別な修行をした人だけのものではない
• あなたもすでに「熟睡」の中で、意識の源に触れている
• ただ、それに気づいていないだけ
悟りとは「非日常」ではなく、
あまりにも日常に近すぎて見逃されている“本質”です。
🪷 記事の最後に:悟りは、まぶたの裏にそっと宿っている
この記事は、「パラトゥリクス」というブログの導入記事として書かれました。
ここでは、「私とは誰か?」「この意識とはなにか?」
そんな問いに真正面から向き合い、
体験・言語・沈黙のすべてを通して真理に迫る記事を今後も発信していきます。
「あなたはそれにすでに触れている」
──ただ、それを思い出すだけなのかもしれません。