確かに、人を傷つけず生きれたらそれがなにより。
確かに、すべてを愛して、すべてを赦して、生きれたらそれがなにより。
しかし、私たち個は決して愛そのものにも、赦しそのものにも「なる」ことはできない。
愛そのもの、愛としての主体とはなんだろう?
つまり、愛とはなんでしょうか?
それは、全体意識そのものです。
個としてのあなたは、まずはじめ、純粋な意識に出逢います。
純粋な意識・・きっとどれほど想像しても、それを掴めないでしょう。
それは、物心がつく前のあなたのことです。
それは身体や名前と同一化する前のあなたのことです。
あなたは自分の正体がまさか、なんのアイデンティティも所持していない、ただ在るだけの存在、そして、あらゆる現象をただ気づき続けている意識だったと知ったら、おそらく超絶驚愕するか、あるいは、そんな話どうでもいいと一蹴することでしょう。
これは、シンプルだからこそ、個の私の永きにわたる想念形態からしたら、否定されたような気分になるかもしれません。
あなたは想念こそ自分、身体こそ自分、記憶こそ自分のすべてだと、信じて疑わないからです。
だけど、面白いもので、ある種の個は、
個であるということそのもの、それが私だと仮定して生きること、つまり、エゴとしての在り方に、耐えがたい苦痛を感じるものです。
これは、なぜでしょうか?
偽りは苦しいから、です。
私たちはある地点で、はじめは美しかった、このエゴの見る夢が、次第に息苦しさを感じることがあります。「夢から目覚めたい」これは、エゴが思うともいえますが、夢そのものの物語が、夢を堪能し続ける物語から、夢から目覚める物語へと、物語を転換させることがあるためです。
それは、恩寵と呼ばれてきました。
しかし、これは冒険の始まりなのです。
催眠を解くのは簡単だけど、簡単じゃないからです。
そのため、夢の現れの中で、目覚めを促す者や、目覚めの方向へ誘うエネルギーたちが、
常に動き回っているのです。
恩寵は必ずいつでもあなたのすぐ近くに在り続けているからです。


