世界について① 個の心は世界の心である

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あたりまえに続く世界

あなたは朝、目が覚めると、天井があり、部屋があり、身体があり、昨日の続きのような一日が始まる。

何かを考えるより先に、世界はもう、何食わぬ顔でそこにある。 

あなたはスマホを手に取り、時間を確認する。あるいは、今日やるべきことを思い出すかもしれない。その瞬間、ふと、連想するよりも前に、胸が重く収縮したり柔らかい軽さで広がったりもする。昨日の記憶の映像が、その瞬間に入り込んできたり、気づいたときには身体は勝手に動き歯を磨いているかもしれない。

私たちはこのように、何の疑いもなく、「私」と「世界」という意識の運動に戻っていく。

ところで、冷静に考えてみると、これは一体何なのでしょうか。

毎朝、当然のように繰り返される「これ」 

日常?人生?生命活動?呼び名はさておき、「これ」は、実に不思議なものです。

なぜ意識は、そして世界は、こんなにも当然のように「続いている」のでしょうか。なぜ昨日の私と、今日の私が、同じ私としてつながって感じられるのでしょうか。  

ひとつの出来事に伴って、思考や感情が起きる、そこから検討や、判断が起き、選択が起きる。ときにその「選択」によって、人生全体の意味さえ変えてしまうこともある。

ほんの小さなきっかけで、目の前の景色が明るく見えることもあれば、同じ世界が、無機質で重たく感じられることもある。あるいは、ただ淡々とどこまでも空虚に見えることもある。

これらは、世界そのものが変わったのでしょうか。

それとも、世界を受け取っている何かが変わったのでしょうか。

この記事では、あたりまえに続いているように見えるこの世界と、個人の心の動き、それらを可能にする「意識」が、どのように関係しているのかを見ていきます。

心が変われば、世界が変わって見える

個人の「マインド」心に起こるいろんな動き。

感情、思考、イメージ、記憶、反応、誰かの言葉に反応したときの身体の動き。選んだ行為。そして、人生の中で何度も似た形で現れてくる傾向とループ的思案。

この心。

これは、確かに、「世界全体」から見れば、小さな点のような現象かもしれない。

けれど、その小さな点のような現象によって、世界全体の見え方が変わることがあります。

なぜだか、昨日まで安心していた世界が急に冷たく見えることがある。逆に、なぜだか、たったひとつの気づきやひらめきによって、同じ部屋、同じ空気、同じ記憶への印象が、ふいに柔らかく平和に見えることもある。

なぜでしょうか。ここに不思議がありますね。

「あなた」の外側にあるその世界。 

もし世界が「ただ外側に固定されたもの」なら、心の状態によって、なぜ世界の手触りまで変わるのでしょうか。

そして、もし心だけがすべてなら、なぜ世界はこれほど、確かなリアリティと重みと説得力を持って現れているのでしょうか。

私たちはふつう、個人の心は自分の内側にあって、世界は自分の外側にある、そう思っています。

しかし、その境目は、本当にそこまで確かなものなのか。

内側と外側は本当に分かれているのか

繰り返しますが、私たちは、自分の中に感情、思考、記憶、欲望、身体感覚があると思っています。

そして、自分の外側に、人、物、出来事、時間、空間、社会、自然、世界があると思っています。

内側にあるものを「自分の心」と呼び、外側にあるものを「世界」と呼んでいます。

この区分は、普通に生きている私たちにとっては自然なものです。

感情は内側に、身体はここに。世界は外側に広がっている。時間は流れている。昨日があり、今日があり、明日がある。

だけど、真理探究においては、ここで一度立ち止まる必要があります。

内側の感情も、知られています。外側の世界も、知られています

思考も知られ、身体も知られ、時間も知られ、空間も知られ、「世界がある」という感覚さえ知られています。 

そのすべてを知っているものは何か

「内側」と「外側」を分ける前に、その「分離」そのものが知られています。 

あなたは「内側」のはずでした。 

そうですよね。 

あなたは「内側」で「外側」はあなたではない「世界の何か」でした。 

なのに、「内側」と「外側」を分ける「分離」がなぜ内側のあなたに知ることができるのか。 

私が言いたいことは、あなたは本当に「内側」だけの存在なのか?ということ。 

「内側」「外側」それらの「分離」も含めて全てを知っている「認識者」「気づき」なのではないでしょうか? 

私がいる。世界がある。時間が流れている。身体がここにある。

そのすべてが、すでに知られています。 

これが「無努力性の気づき」です。 

では、それを知っているものは何なのでしょうか。

この問いがなければ、このような心と世界の話は、ただのノイズ、世界観やニュアンスの話で終わってしまいます。

真理探究において大切なのは、内側の世界と外側の世界の関係だけではありません。

その両方を知っているものへ戻ることです。それが修錬。

あらためて世界とは 〜波と海〜

例えば、波と海。 

これは個人の心や身体「内側」と、世界全体「外側」の関係と似ています。 

波を見れば、波は波として見え、海を見れば、海は海として見える。

けど、波は海の外にあるわけではありませんね。

海という広がりの中で、波は波として現れ、波があるからこそ、海の動きが見えてくる。

つまり、波と海は、便宜上は分けられるけど、完全に別のものとして「切り離すこと」はできません。

心の反応と世界の運動も、これに似てるんです。

感情、思考、欲望、快楽ー不快、マインド。それらは、自分だけの内側で起きている小さな出来事に見えるだけで、じつはそれは「世界全体の運動から完全に切り離されているわけではない」ということです。

波が海の動きとして現れるように、個人の心の反応もまた、より大きな運動の中に現れている。小さな出来事が、大きな構造の中で起き、同時に、その小さな出来事の積み重なりによって、世界の「現実感」が支えられている。 

つまり、心と世界は、互いに無関係な二つのものではなく、意識の中で同時に知られている運動として現れているんです。

夢の中では、それを夢だと思わない

夢の中では、誰かと会い、どこかへ向かい、何かを行い、何かを探しています。そのとき、夢の中のあなたは、それを夢だとは思っていません。

だけど、そこに場所があり、時間があり、理由があり、感情があり、記憶があり、場合によっては、ひとつの人生のようなものさえある。夢の中の出来事は、ただの映像の変化と思いきや、その瞬間瞬間には、普段の日常と同じく、意味や重みなどを持ち、あなたの観念に沿って自動的(オートマティック)に動いていきます。

けど目覚めて振り返れば、その世界も、出来事も、感情も、そこにいた「私」さえも、全体が意識の中に起きていた運動だったと分かります。

日常世界も、これと似た構造を持っています。 

一見すると内と外は別々に分かれているように感じられるが、実際は全体が連動していて、さらには全体それ自身の運動が自動的(オートマティック)に起こり続いている。

そして、「夢の中の世界」も、「夢の中の私」も、その瞬間にはそれは説得力のある人生であり、現実であり、個人があり、他人があり、世界があった。

世界を動かしている見えない運動

では、この意識の運動は、何によって動き続けているのでしょうか。

なぜ心は揺れるのか。なぜ感情は流れるのか。なぜ身体は反応するのか。なぜ人生は、似たような形を何度も繰り返したり、急な展開に切り替わったりするのか。また、なぜ人は、同じ苦しみ、同じ欲望、同じ恐れ、同じ探究の衝動へと引き寄せられていくのか。偶然、性格、過去の影響。

全てまとめて神の意志。ええ、そう言うこともできます。

呼び名はなんにせよ、私たちの心と世界の奥には、見えない運動の型があります。

水面の下で潮がまるで意志を持って動いているように、表面には見えなくても、たしかに流れを作っている何か構成要素のようなものがあります。

いにしえの叡智は、その型を、「元素とグナ」という地図で見てきました。

インドの伝統では「五元素」。西洋の伝統では「四元素」。

そして、世界の運動の質を示す「三つのグナ」。

これらは、心と世界がどのように現れ、どのように動き、どのように形を取り、どのように崩れ、どのようにまた続いていくのか。その構造をなんとなーく読むための地図です。

この記事では、あたりまえに見える世界と、個人の心の動きが、完全に切り離されたものではないことを少し見てきましたが、次の記事では、古い叡智が見てきた「元素」と「グナ」という地図から、心と世界の運動を見ていきます。

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