世界とは何か

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あたりまえに続く世界

ようこそ、パラトゥリクスへ。

起床──朝、目が覚めると天井があり、部屋があり、身体があり昨日の続きのような一日が始まります。

何かを考えるより先に、世界はもう何食わぬ顔でそこにある。

スマホを手に取り、時間を確認。あるいは、今日やるべきことを思い出す。

その瞬間、イメージするよりも前に、胸が重く収縮したり、柔らかい軽さで広がったりもする。

昨日の記憶の映像が、その瞬間に入り込んでくることもある。

なのに、気づいたときには、身体は勝手に動き洗面台で、歯を磨いているかもしれません。

私たちはこのように、何の疑いもなく、「私」と「世界」という「意識の運動」へ戻っていきます。

ところで、冷静に考えてみると、これは一体何なんなのでしょうね。

毎朝、当然のように繰り返される「これ」

日常。人生。生命活動。生きる。呼び名はさておき、「これ」は実に不思議なものです。

なぜ意識、そして世界は、こんなにも当然のように続いているのでしょうか。なぜ昨日の私と今日の私が、同じ私としてつながって感じられるのでしょうか。

毎日、ひとつの出来事に伴って、思考や感情が起き、検討や判断が起き、選択が起きます。ときに、その選択や展開によって、運命が大きく変わることもあります。

そんな心もまた、小さなきっかけで、目の前の景色が明るく感じられることもあれば、重たく暗く感じられることもある。

これらは、世界そのものが変わったのでしょうか。

それとも、世界を受け取っている何かが変わったのでしょうか。

あるいは、世界と、それを受け取っている何かは、本当に二つなのでしょうか。

この記事では、あたりまえに続いているように見えるこの世界や個人の心の動き、そして、それらを可能にする意識がどのように関係しているのかを見ていきます。

心が変われば、世界が変わって見える

個人のマインド、心に起こる色々な動き。感情。思考。イメージ。記憶。反応。

誰かの言葉に反応したときの身体の動き。選んだ行為。そして、人生の中で何度も似た形で現れてくる傾向やループ。

心。

これは、世界全体から見れば、小さな点のような現象に見えます。そして、その小さな点のような現象の変化によって、世界全体の見え方や捉え方さえ変わることがあります。

あなたの外側にある、その世界。

もし世界が、ただ外側に独立して固定されたものなら、心の状態によって、なぜ世界への印象が変わるのでしょうか。

もし心という、絶えず変化し動き続けるものがすべてなら、なぜ世界はこれほど確かなリアリティと重みを持って現れているのでしょうか。

悲しいとき、世界は悲しい色を帯びます。幸福なとき、昨日まで気にも留めなかった光や風景が、急に美しく見えることもあります。

世界が変わったのでしょうか。

心が変わったのでしょうか。

・・

私たちはふつう、「個人の心は自分の内側にあって、世界は自分の外側にあるんだ」と思っています。

しかし、その境目は、本当にそこまで確かなものなのでしょうか。

内側と外側は本当に分かれているのか

私たちは、自分の中に感情、思考、記憶、欲望、身体感覚があり、

自分の外側に、人、物、出来事、時間、空間、社会、自然、世界があると思っています。

内側にあるものを、自分の心と呼び、外側にあるものを、世界と呼んでいます。

この区分は、生きている私たちにとっては自然なものです。

だけど、真理探究においては、ここで一度立ち止まる必要があります。

内側の感情も知られています。外側の世界も知られています。

思考も身体も、時間も空間も「世界がある」という感覚さえ、すでに知られています。

では、

内側と外側を分けている境界線は、どこにあるのでしょうか。

身体の表面でしょうか。思考の中でしょうか。感覚の中でしょうか。

それとも、境界線そのものもまた、今ここで知られている一つの感覚なのでしょうか。

そのすべてを知っているものは何か

内側と外側を分ける前に、その分離そのものが知られています。

あなたは内側のはずでした。そうですよね。

あなたは内側で、外側はあなたではない、世界の何かでした。

なのに、その分離を、なぜ知ることができるのでしょうか。

あなたは、本当に内側だけの存在なのでしょうか。

私。世界。時間。身体。

そのすべては、すでに知られています。

あなたが努力して知ったわけではありません。

考える前に、すでに知られている。

この無努力性の気づき。

では、

それを知っているものは何なのでしょうか。

あらためて世界とは 〜波と海〜

例えば、波と海。

これは個人の心や身体という内側と、世界全体という外側の関係に似ています。

波を見れば、波は波として見えます。

海を見れば、海は海として見えます。

しかし、波は海の外にあるわけではありません。海という広がりの中で波は波として現れ、波があるからこそ海の動きが見えてきます。

つまり、波と海は便宜上は分けられるけれど、完全に切り離すことはできません。

では、

波は自分を波だと思っているのでしょうか。

海は、自分の中に波を起こしているのでしょうか。

それとも、「波」と「海」という二つの名前をつけた瞬間に私たちの側で分離が始まるのでしょうか。

心の反応と世界の運動も、これに似ているのかもしれません。

感情。思考。欲望。快楽と不快。マインド。これらは自分だけの内側で起きている小さな出来事に見えます。

だけど本当に、それは世界全体の運動から切り離されているのでしょうか。

波が海の動きとして現れるように、個人の心の反応もまた、より大きな運動の中に現れている。

その一つの運動を見ているものは、その運動の中にあるのでしょうか。

それとも、外にあるのでしょうか。

もし外にあるなら、その外とは、どこなのでしょうか。

夢の中では、それを夢だと思わない

夢の中では誰かと会い、どこかへ向かったり何かを行い、物語、ドラマを展開させています。

そのとき夢の中のあなたは、これが夢だとは思っていません。

そこには場所や時間があり、理由や感情があり、判断も記憶もあります。

ひとつの人生や生活のようなものさえあります。

夢の中の出来事は、その瞬間には日常と同じような確かな説得力や重みを持っています。

ところが目覚めて振り返れば、

その世界も出来事も、感情もそこにいた私さえもぜんぶがひとつの運動だったと分かります。

では夢の中の私は、何を根拠にそれを現実だと信じていたのでしょうか。

景色?身体感覚?記憶や時間の流れでしょうか。

それとも、疑うという考え自体が起きなかったからでしょうか。

夢の中にも私がいて世界があります。次にすべきことがあります。

目覚めるまでそれを疑いません。

では、今私たちが現実と呼んでいるものを、現実だと確信させているものは何なのでしょうか。

世界を動かしている見えない運動

この意識の運動は、どんな原理によって動き続けているのでしょうか。

世界は外側にあるものなのでしょうか。

それとも、心の中だけにあるものなのでしょうか。

あるいは、そのどちらでもないのでしょうか。

ひとつの思考が起きます。感情が起きます。身体が動きます。言葉が出ます。誰かがそれを受け取り、

また別の反応が起きます。その連鎖はどこから始まったのでしょうか。

始まりは本当にあったのでしょうか。

私たちは自分が考え、自分が決め自分が動いたと思っています。

けど、その考えが現れる前にそれを選んだ私はどこにいたのでしょうか。

世界は今日も何食わぬ顔で続いています。

そして、その私が「私は今、世界を見ている」と思います。

けど本当に私が世界を見ているのでしょうか。

あるいは、世界と私が同時に現れているのでしょうか。

世界を見ているのは誰なのでしょうか。あるいは世界の方が先にあなたを見ているのでしょうか。

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この記事を書いた人

パラトゥリクス管理人。

言葉になったものを置いています。

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