私とはなにで、なにが私ではないのか?
これは、偽りの同一化のリストたちに捧げる詩である
「これは私ではない」
私は、この文字を見ている、「この身体」ではない。
皮膚ではない。
骨ではない。
内臓ではない。
血液ではない。
神経ではない。
脳ではない。
身体は、常に変化し続けている。
生まれ、成長し、老い、やがて崩れていく。
しかし
その変化を
私はずっと「見ている」。
たとえ、身体の一部が欠けても、
「私が欠けた」とは感じない。
だから
身体は私ではない。
また私は、呼吸ではない。
鼓動ではない。
体温ではない。
代謝ではない。
細胞の動きではない。
これらは
私の意思とは無関係に
淡々と起き続けている。
止めようとしても止まらず、
意図しなくても続いている。
ただただ
起きている。
私はそれに
気づいているだけだ。
だから
この生命活動は私ではない。
また私は、視覚ではない。
聴覚ではない。
触覚ではない。
嗅覚ではない。
味覚ではない。
これらの五感は対象がなければ現れない。
「見ること」が起きている。そして、私は「見ていること」に気づいている。
気づいているということは、それは私ではないということだ。
聞くことが起きている。
私は聞いていることに気づいている。
触れる感触が起きている。
私はその感触に気づいている。
匂いや香りが立ち上がっている。
私は嗅いでいることに気づいている。
味が広がっている。
私は味わいが起きていることに気づいている。
対象に依存するものは、主体ではない。
私は常に在るからだ。
だから感覚は私ではない。
感覚の広がり
軽さ
重さ
まとわりつく感じ
私はそれらすべてに気づいている。
気づいているということは、それは私ではない。
快でもない。
不快でもない。
心地よさでもない。
違和感でもない。
重さでもない。
軽さでもない。
感覚は常に変化する。
変化するものは、在り続ける私ではない。
だから、身体感覚は私ではない。
私は感情ではない。
怒りではない。
恐れではない。
悲しみではない。
虚しさではない。
安心でもない。
愛でもない。
感情は起き
留まり、消える。
私はそのすべてを見送っている。
消えるものは本質ではない。
現れもせず、消えもしないもの、それが私だ。
だから感情は私ではない。
私は思考ではない。
私は思考が完全に消えている熟睡の中でも存在していた。
思考が現れたとき私は、それに気づいていた。
気づいているということは思考は私ではない。
だから私は、考えではない。
言葉ではない。
イメージではない。
想像ではない。
計画ではない。
後悔ではない。
期待ではない。
思考は私の許可なく現れ私の意思なく消える。
制御できないものを「私」とは呼べない。
だから思考は私ではない。
判断ではない。
評価ではない。
比較ではない。
善悪ではない。
正誤ではない。
判断は、立場と状況によって簡単に変わる。
変わるものに絶対的な基準はない。
だから判断は私ではない。
私は記憶ではない。
私は記憶に気づいている。
だから私は記憶ではない。
過去の体験ではない。
過去の痛みではない。
過去の悟り体験でもない。
記憶は書き換わり歪み忘れられる。
不確かなものは、真の私ではない。
だから、記憶は私ではない。
私は性格ではない。
内向的でもない。
外向的でもない。
繊細でもない。
鈍感でもない。
性格は環境と年齢で変わる。
変わるものは同一性を持たない。
だから性格は私ではない。
私は役割ではない。
親でもない。
子でもない。
仕事人でもない。
相談者でもない。
探求者でもない。
役割は状況がなければ成立しない。
私はどんな状況でも変わらず在る。
それが主体であるということ。
だから役割は私ではない。
私は人生でもない。
成功した人生でもない。
失敗した人生でもない。
苦しい人生でもない。
平穏な人生でもない。
人生とは記憶と解釈と物語の集合。
物語は語られるものであって語る者ではない。
だから人生は私ではない。
私は「私」という感覚でもない。
私はいる、という感覚。
私が中心だ、という感覚。
これもまた現れ消える。
熟睡や深い眠り
失神
そのとき
この感覚は存在しない。
それでも
存在は失われていない。
だから「私」という感覚も私ではない。
私は、探求している私でもない。理解している私でもない。わからない私でもない。
進んでいる私でもない。停滞している私でもない。
これらはすべて
一時的な立場
一時的な状態。
だから、探求者という私も私ではない。
ここまで否定しても
なお
消えないものがある。
それは
対象ではない。
状態でもない。
経験でもない。
ただ、在る。
そして、エゴとは何か。
エゴとはこれらすべての「私ではないもの」に、
私というラベルを無意識に貼り続ける長年の習慣である。
真理探求とは何か。
真理探求とは何かを得ることではない。
誤認を、一つずつ、静かに外していくこと。
それ以外に何も起きていない。
何も足さない。何も引かない。純粋な意識である私は、ただ在る。
私は「ただ在る」と言わなくてもいい。
私は、もともとただ在る。
ただ、これが、パラトゥリクスの「個の私と世界」の記事の、はじめの基礎石になることを祈ります。


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