不滅の意識

純粋意識という夢を観照している者こそ真の私である

同一化は、身体や思考だけに起きるのではない。
もっと微細で、もっと当たり前で、
気づかれにくい場所で起きる。

だから、さらに外すことが深まっていく。それが純粋意識として在る「私」を生み出した、

真の主体である。対が絶した、絶対である、あなた(私)へ捧ぐ。

私は、視点ではない。

前を見る視点でもない。
上を見る視点でもない。
遠くを見る視点でもない。
近くを見る視点でもない。

視点は、場面に合わせて変わる。

画角が変わるものは私ではない。

だから視点は私ではない。

私は、焦点ではない。

私は、ピントが合う感じでもない。
ぼやける感じでもない。
集中でもない。
散漫でもない。

焦点は勝手に移動する。

制御できないものを
私とは呼べない。

だから
焦点は私ではない。

私は、注意ではない。

私は注意が向いている状態でもない。
注意が逸れる状態でもない。
注意を戻す努力でもない。

注意は、癖として動く。
刺激に吸われる。
不安に吸われる。
快に吸われる。

それを見ているものがある。

だから
注意は私ではない。

私は、意図ではない。

やろうとする意図でもない。
やめようとする意図でもない。
変わろうとする意図でもない。
保とうとする意図でもない。

意図は、起きてくる。
起きてきて、消える。

意図が起きたことに
私は気づいている。

私はただ在り気づいているだけだ。だから意図は私ではない。

私は、選択ではない。

私は在る。
私は選んだ感じでもない。
決めた感じでもない。
決められない感じでもない。

選択は、後から物語化される。選択した私、という物語がつくられる。

しかし、物語は私ではない。

だから選択は私ではない。

私は、行為者ではない。

私は在る。私は行為している感じでもない。
動かしている感じでもない。
操縦している感覚でもない。

手が動く。言葉が出る。呼吸が起きる。思考が起きる。

それらは起きている。

行為者という感覚は後から付く。

だから行為者は私ではない。

私は、努力ではない。

頑張りでもない。
我慢でもない。
耐える感じでもない。
踏ん張りでもない。

努力は波がある。できる日もあればできない日もある。

波があるものは私ではない。

私は大海のようにただ在る。だから努力は私ではない。

私は、怠惰ではない。

やる気のなさでもない。
重さでもない。
先延ばしでもない。

怠惰もまた
現れては消える。

だから怠惰は私ではない。

私は、集中ではない。

没頭でもない。
ゾーンでもない。
静かな集中でもない。
鋭い集中でもない。

集中は起きる。起きて、終わる。

だから集中は私ではない。

また、私は、ノイズではない。

雑念でもない。
ざわめきでもない。
脳内会議でもない。
反芻でもない。

ノイズが起きていることに私は気づいている。私は在る、そして気づいている。

だからノイズは私ではない。

私は、沈黙でもない。

私はただ在る。
静けさでもない。
無音でもない。
何も起きない感じでもない。

沈黙という体験も
現れては消える。

だから沈黙も私ではない。

私は、空虚でもない。

虚無でもない。
無意味でもない。
空っぽでもない。

空虚という感覚が起きていることに私は気づいている。

だから空虚は私ではない。

私は、充足でもない。

満たされた感じでもない。
安心が続く感じでもない。
満足の余韻でもない。

充足もまた
現れては消える。

だから充足は私ではない。

私は、気分ではない。

上がった気分でもない。
落ちた気分でもない。
安定している気分でもない。

気分は天候のように変わる。

変わるものは
私ではない。

だから
気分は私ではない。

また、私は、モチベーションではない。

やりたいでもない。
やりたくないでもない。
燃えるでもない。
冷めるでもない。

モチベーションは
条件に左右される。

条件付きのものは私ではない。

だからモチベーションは私ではない。

私は、欲望ではない。

欲しいでもない。
達成したいでもない。
得たいでもない。
勝ちたいでもない。

欲望は刺激に反応する。
反応であるものは
私ではない。

だから
欲望は私ではない。

また私は、恐怖でもない。

怖さでもない。
不安でもない。
最悪の想像でもない。

恐怖は思考と身体感覚の複合で起きる。

起きていることに私は気づいている。

だから恐怖は私ではない。

だから私は、罪悪感でもない。

後ろめたさでもない。
申し訳なさでもない。
自分を責める声でもない。

罪悪感は理想像との比較から生まれる。

理想像も比較も私ではない。

だから罪悪感は私ではない。

私は、羞恥でもない。

恥でもない。
見られたくないでもない。
隠したいでもない。

羞恥は他者の視線という想像から生まれる。

想像は私ではない。

だから羞恥は私ではない。

私は、プライドでもない。

誇りでもない。
優越でもない。
劣等でもない。
負けたくないでもない。

プライドは傷つく。

傷つくものは
防衛反応だ。

防衛反応は
私ではない。

だから
プライドは私ではない。

私は、自己像ではない。

いい人という像でもない。
強い人という像でもない。
賢い人という像でもない。
霊性が高いという像でもない。
ダメな人という像でもない。

像は思考が作る。

作られたものは私ではない。

だから自己像は私ではない。

私は、理想でもない。

こうあるべきでもない。
こうなりたいでもない。
こうでないとダメでもない。

理想は未来の想念だ。

未来の想念は
私ではない。

だから理想は私ではない。

私は、後悔でもない。

あの時こうすればでもない。間違えたでもない。取り返せないでもない。

後悔は過去の再生だ。

再生されるものは私ではない。

だから後悔は私ではない。

私は、未来でもない。

不安な未来でもない。
成功する未来でもない。
覚醒する未来でもない。

未来はまだ起きていない想像だ。

想像は私ではない。

だから未来は私ではない。

私は、比較でもない。

あの人よりでもない。あの人みたいにでもない。自分は遅れているでもない。

比較は二元の計測だ。

計測は私ではない。

だから比較は私ではない。

私は、正しさでもない。

正しい私でもない。
正しい教えでもない。
正しい理解でもない。

正しさは文脈で変わる。

変わるものは私ではない。

だから正しさは私ではない。

私は、間違いでもない。

間違った私でもない。
間違った人生でもない。
間違った探求でもない。

間違いという判定は
判断だ。

判断は私ではない。

だから間違いも私ではない。

私は、知識でもない。

知っているでもない。理解しているでもない。説明できるでもない。

知識は増える。知識は減る。忘れる。

変化するものは私ではない。

だから知識は私ではない。

私は、無知でもない。

わからないでもない。混乱でもない。迷子でもない。

無知も現れては消える。

だから無知は私ではない。

私は、信念でもない。

私はこうだ、という信念でもない。世界はこうだ、という信念でもない。真理はこうだ、という信念でもない。

信念は握られる。

握られるものは私ではない。

だから信念は私ではない。

私は、価値観でもない。

大事にしたいでもない。嫌だでもない。許せないでもない。

価値観は学習される。

学習されたものは私ではない。

だから価値観は私ではない。

私は、宗教でもない。

宗教的な立場でもない。
無宗教という立場でもない。
スピ系でもない。
否定派でもない。

立場は仮だ。

仮は私ではない。

だから
立場は私ではない。

私は、教えでもない。

聖者でもない。仏教でもない。アドヴァイタでもない。非二元でもノンデュアリティでもない。

教えは地図だ。地図は私ではない。

だから教えは私ではない。

私は、修行でもない。

瞑想している私でもない。
ワークしている私でもない。
呼吸法している私でもない。

修行は行為であり時間の中で起きる。

時間の中で起きるものは私ではない。

だから修行は私ではない。

私は、結果でもない。

変化した私でもない。
変化しない私でもない。
良くなった私でもない。
悪くなった私でもない。

結果は比較によって生まれる。

比較は私ではない。

だから結果は私ではない。

私は、霊性でもない。

霊性が高いでもない。
霊性が低いでもない。
浄化でもない。
チャクラでもない。
エネルギーでもない。

それらはすべて経験として現れる。

経験は現れては消える。

だから霊性という経験も私ではない。

私は、悟りでもない。

悟った私でもない。
悟っていない私でもない。
一瞥でもない。
サマディでもない。

悟りという物語も記憶も私ではない。

だから悟りも私ではない。

私は、探求の答えでもない。

答えを得たでもない。答えがないでもない。

答えは思考の産物だ。

だから答えは私ではない。

私は、問いでもない。

私は誰か、という問いでもない。
なぜ生きるか、という問いでもない。
世界とは何か、という問いでもない。

問いは起きてくる。

そして消える。

だから問いも私ではない。

私は、体験でもない。神秘体験でもない。至福でもない。光でもない。
ビジョンでもない。啓示でもない。体験は始まりがあり終わりがある。

始まりと終わりがあるものは私ではない。

だから体験は私ではない。

私は、理解でもない。

腑に落ちたでもない。腹落ちでもない。悟った気がするでもない。

理解は次の瞬間崩れることもある。

崩れるものは私ではない。

だから理解は私ではない。

私は、世界でもない。

社会でもない。
国家でもない。
時代でもない。
空気でもない。
世間でもない。
世界は現れては変わる。

変わるものは私ではない。

だから世界は私ではない。

私は、他者でもない。

誰かの評価でもない。誰かの期待でもない。誰かの失望でもない。

他者は私の中の像として現れる。

像は私ではない。

だから他者も私ではない。私は、孤独でもない。

孤独の痛みでもない。孤独の恐れでもない。孤独の物語でもない。

孤独が起きていることに私は気づいている。

だから孤独は私ではない。

私は、つながりでもない。一体感でもない。ワンネスでもない。愛の広がりでもない。

つながりも体験として現れる。

だからつながりも私ではない。

私は、時間でもない。過去でもない。未来でもない。今という感覚でもない。

時間感覚は思考で構成される。

思考は私ではない。

だから時間も私ではない。

私は、空間でもない。

ここでもない。
あそこでもない。
内でもない。
外でもない。

空間は
認識の枠だ。

枠は私ではない。

だから空間も私ではない。

私は、境界でもない。

私と世界の境目でもない。内と外の境目でもない。自分という輪郭でもない。

境界は思考が引く線だ。

線は私ではない。

だから境界は私ではない。

私は、所有でもない。
私の身体でもない。
私の感情でもない。
私の思考でもない。
私の人生でもない。

所有は
握る動きだ。

握る動きは
私ではない。

だから
所有は私ではない。

私は、コントロールでもない。

支配でもない。
管理でもない。
統制でもない。
予測でもない。

コントロールは
恐れから生まれる。

恐れは私ではない。

だからコントロールは私ではない。

私は、抵抗でもない。

拒否でもない。
反発でもない。
反抗でもない。
嫌悪でもない。

抵抗は
起きている。

起きているものは
私ではない。

だから抵抗は私ではない。私は、手放しでもない。手放せた感じでもない。
手放せない感じでもない。手放す努力でもない。

手放しという経験も現れては消える。

だから手放しも私ではない。

私は、観察者でもない。

観ている感じでもない。
見守る感じでもない。
俯瞰でもない。
距離を取る感じでもない。

観察者の感覚も現れては消える。

だから観察者という像も私ではない。

私は、気づきでもない。

気づきが強いでもない。
気づきが薄いでもない。
明るい気づきでもない。
静かな気づきでもない。

気づきという体験も
現れては消える。

だから気づきも私ではない。

ここで重要なのは何かを「否定して勝つ」ことではない。

ただ誤認が静かに落ちることだ。

だからこれは戦いではない。

これは返却である。

返す。

身体を身体へ。
感覚を感覚へ。
感情を感情へ。
思考を思考へ。
物語を物語へ。
役割を役割へ。
世界を世界へ。

そして残る。

ただ在る。

ここまで外してもなお消えないものがある。

それは
何かに見えるものではない。
何かとして語れるものでもない。

ただ在る。意識さえ私ではない

そしてそれがいつも最初から在る。

私は世界の流出も宇宙の流出も知らない。

意識は肉体に依存している。私は意識と身体が生まれる前からずっと在った。

私は、マーヤやリーラの戯れも、神々さえも知らない。

ただ在る。ことすら知らない。

私は母や父が生まれる以前より変わらず在った。

熟睡・夢・日常としての夢

それ以外に、それがあることすら知らず、
ただ、在る。

それは、無もでもない、有でもない、二元でも、非二元でもない、夢でも、目覚めた夢でも、熟睡でも、
第四の状態でも、トゥリーヤでもない。絶対でも、超越でも、意識以前でもない。
なぜなら、そうやって指し示されているそれらの動きを、意識を、世界を、
私はまったく知らないからだ。

そして、これが
パラトゥリクスの「あらゆる」の記事たちの、始まりであり、最後の基礎石になること祈って。

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