朝、夢から覚めた直後、見ていたはずの世界が急速に消えていくことがある。
どこか知らない町を歩いていた。たしか乳白色の机の引き出しを開けると、その向こう側には別の町があり、さらに奥の方に海がみえた。
空は薄い緑色で誰かの声が、自分の声として聞こえていた。夢の中にいるあいだは何もかもちっともおかしくない。
机の中に町があっても海がみえても、それが当たり前の世界なのだから疑う理由がない。
目が覚めてから初めて気づく。
あぁ、あれは夢だった、と。
それにしたって不思議だ。
今ここにある当たり前の世界を、夢ではないと知っているのは誰なのだろう。
小指としての私
右手を開いて、小指を見てみる。
小指には小指としての形がある。
薬指とは「別の」場所にあって、こうやって小指だけ動かすこともできる。小指を「小指」という言葉でじっと見ていれば、それは一つの独立した存在のように確かに見える。
しかし小指だけで、小指として本当の意味で存在することはできない。手のひら、腕、身体全身があり血が流れている。だからこそ小指は小指として機能している。
自分には自分の身体があり、人生があり考えがある。
他人は、自分とは別の人間。自分は小指、あの人は薬指。別の何か。
僕は長い間そう思っていた。
二つの私
どこからか声がした。
「あなたは小指だと思っている」
「僕は小指なの?」
「小指として生きている。でも、小指だけ、ではない」
「では、本当の僕は手なの?」
「小指も、薬指も、手のひらも全部を含んでいるもの」
「それに気づいたら小指は消えるの?」
「形は消えない。小指だけ、が自分だ。という錯覚が終わる」
「それは、死ぬこととは違うの?」
「死ぬのは、孤立していた個という思い込み」
「でも、かなり怖いな」
「小指は、小指としての自分自身が消えると思いこんでるから」
「どうすれば、手としての僕になれる?」
「最初からずっと手だったものが、どうやって手になるの?」
声は止まった。
僕は自分の手を開いて見た。
小指は何も知らん顔で、ただそこにあった。
終わりたいのに、終わらせたくない
探究をしていると、いつか疲れることがある。
真実を知りたいとか、目覚めたい真我へ還りたい。何度もそう願いながら、次の本を探し、言葉を待ち明晰な体験を求めた。
ある日、また声がした。
「もう終わりたい?」
「疲れた。もう終わってもいい」
「本当に?」
答えようとしたが、僕は言葉が出なかった。本当にすべてが終わるとしたら。
探すことも期待することも、奇跡を待つことだってもう終わる。新しい発見も次の扉もない。次の世界が二度と始まらない。僕は急に悲しくなった。
「まだ終わりたくない」
「なぜ?」
「まだ見たいから。もっと体験したいから」
「飽きるまで?」
「飽きたくない」
今度は僕がしばらく黙っていた。
そしてやっと言った。
「飽きたくないから忘れたい。全部忘れて初めて見るように、また新たに始めたい」
声はそこで消えた。
幾億万回目の始まり
それから、気の遠くなるほど長い時間が過ぎた。
何かが始まり、しばらく続き終わった。また何かが始まり、しばらく続き終わった。
色々あった。人を愛したし憎んだ。でも憎んでからまた愛した。手に入れ失い、再び別の形のものを手に入れた。
さらに真実を探した。ある日見つけたと思った。そして、また見失った。
知らない誰かの声が聞こえた。
「どうすれば目覚められますか」
返事はなかった。
「正しい方法は何ですか」
何も聞こえない。
「どうすれば、個の私から真の自己へ至れますか」
沈黙だけがあった。
僕は空を見上げた。そして、何の原因もなく、突然それは起きた。
はっとした。
夢を見ていた。長い夢だった。
僕は目覚めた。
ようやく終わった。そう思った。
次の瞬間、また声がした。
「夢から覚めたと思っているのは、誰?」
目覚めたという夢
夢の中で、「これは夢だ」と気づくことがある。
その瞬間、夢から自由になったように感じる。空を飛ぶこともできる。ビルだらけの街の景色を一気に田園風景に変えることもできる。
僕はある日、これが夢だと気づいたその気づきさえもまた、夢の中で起きていることを見た。
「自分は目覚めた」
自分は目覚めた、自分は悟ったという思い、記憶、物語も現れては消える一つの声と同じなのかもしれない。
では、本当の目覚めとは何だろう。
夢の中にいる誰かが、特別な状態へ到達することなのか。
それとも、「私は目覚めた」という声さえ、夢の中のひとつの物語にすぎないのだろうか。
「これはすべて夢だった」と知る者が残っているなら、その者は本当に夢の外にいるのだろうか。
声は何も答えなかった。
夢という言葉も、目覚めという言葉も、そこでポロっと剥がれていって落ちた。
あぁ、手は分かれていなかった
僕はもう一度、右手を開く。小指があって薬指がある。中指、人差し指、それから親指がある。
形も役割も、きっとそれぞれ違う。
手ははじめから一度も、五つに分かれてはいなかった。
小指がそれを知らなくても孤独を感じても、小指が手になろうと何年も本当の自分の姿を探し続けても。
最初から、手だった。
ただ、小指がわずかに動いた。
それを動かしているものは、何も名乗らなかった。

