夜明け前、ひとつの行進が始まった。
先頭を歩いていたのは、スーツ姿の男だった。
ネクタイは少し曲がり、片方の靴ひもがほどけていた。男は胸に白い花を抱いていた。花びらの先には、まだ露が残っていた。男はときどき目をこすったが靴ひものことには気づかなかった。
刃を握った者もいた。刃の表面には、乾いた血がこびりついていた。
母親は、子どもの手を少しだけ強く握った。子どもは列がどこへ向かうのか知らなかった。ときどき前を歩く者たちを見上げていたが、母親に尋ねることはなかった。
王冠をかぶった者は、何度も後ろを振り返った。自分より先を歩く者がいることを、どこか受け入れられないようだった。
墓地から起き上がったばかりの者もいた。絡まった髪にも肩にも湿った土が残り、歩くたびに小さな草の根が落ちた。
分厚い帳簿と秤を抱えた商人が続いた。帳簿には細かな数字が並び、最後の頁だけが空白のまま残されていた。
白い鳩を入れた籠を抱く者もいた。鳩は籠の中で翼をたたみ、ときおり小さく首を動かしている。
全身を布で覆った者がいた。周囲の者たちは、その者を聖者と呼んでいた。
列の後ろには、羽根を持つ者と角を持つ者がいた。どちらが天使で、どちらが悪魔なのか遠くからはよく分からなかった。
誰もどこから来たのかを尋ねなかった。列の先には、ひとつの神殿があった。いつ誰が建てたのかは分からない。壁には継ぎ目がなく長い年月を経たようにも今しがた地面から現れたようにも見えた。
扉の上には、文字らしきものが刻まれていた。遠くからは読めそうだったが、近づくほど文字は形を失っていった。
門
神殿の入口には、門番が立っていた。
門番は老人にも若者にも見えた。長いあいだそこに立っていたようだったが、その顔には待ち疲れた様子さえなかった。
先頭のスーツ姿の男が前へ出た。
「あなたは何者だ」
門番が尋ねた。
男は胸の白い花へ一度だけ目を落としてから、自分の名を答えた。
門番は首を横に振った。
男は勤めている会社と役職を答えた。一族の中での立場、世間からどのように評価されているかも話した。これまで多くの善を施し、人を助け、正しく生きてきたことを少し早口になりながら付け加えた。
男が何を答えても、門番の目は胸につけられた名札から微塵も動かなかった。
「それを置いて、中へ」
男は困った。名前も立場も善行も置いてしまえば、自分には何が残るのだろう。男はしばらく動かなかった。
そのやりとりの後ろでは王冠をかぶった者が苛立ったように足を鳴らし、その音に墓地から来た者が震え、肩から土がひとつ落ちた。
やがてスーツ姿の男は、決心したように胸につけていた名札を取り外した。
小さな金属音を立て、名札は門の脇へ置かれた。花だけを抱えたまま男は中へ入っていった。
次に、刃を握った者が進み出た。
その者は、悪人と呼ばれていた。男は自分の罪を語った。
憎んだ人間の名を次々に挙げ、傷つけた者たちの顔を思い出しながら、自分がどれほど汚れているか、自分はいかに己のことを怪物だと思っているかを話し始めた。
門番は途中で、首を横に振った。
「それを置いて、中へ」
男は怒った。
「俺が悪人だということを置けと言うのか」
門番は何も言わず、男の胸を指した。
男はそこを見た。しかし名札には、「悪人」とは書かれていなかった。
「罪人」
男は長いあいだ、その二文字を見ていた。それから乱暴に名札を外し、地面へ勢いよく投げつけた。
次に、母親と子どもが進み出た。
母親は自分の名と職業を答えた。
門番は首を横に振った。
母親は胸につけていた「母親」という名札を外した。
子どもはそれを見て、すぐに自分の胸元を探した。
何もついていなかった。母親は何も言わず、子どもの手を引いて中へ入った。
次に王が来た。
門番に頭に乗っている王冠を置けと言われると、王は鋭い眼光で睨んだ。
「名札は置く。しかし、この王冠は私の命そのものだ」
そう言って王は名札を外し門の脇へ置くと、そのまま進もうとした。
「それを置かなければ、ここには入れない」
王は狼狽した。王冠に手をかけた。外そうとして、また戻した。
列の後ろを振り返った。
もうここでは誰も、自分のことを畏れず、自分に頭を下げていなかった。
王はゆっくりと王冠を外した。その下には、汗で濡れた普通の髪があった。
その様子を見て、列の流れは早まった。
墓地から来た者は、土に汚れた「死者」という名札を外した。
商人は、自分の名と所有する財産の額が記された札を置いた。
鳩を抱いた者は籠につけられていた「平和を願う者」という札を外した。
聖者と呼ばれていた者も、「聖者」と書かれた名札を置いた。
羽根を持つ者は、翼につけられていた名を外した。
ところが、角を持つ者は動かなかった。
「俺は行かねえ」
羽根を持つ者は、その隣に立った。
門番は何も言わなかった。
しばらくして、角を持つ者は舌打ちし、角に結びつけられていた名を外した。
二人は並んで、中へ入っていった。
名を置いた者たちは、神殿の奥へ入っていった。
門の脇には、たくさんの名前が積み上がっていた。
届かない言葉
神殿の中には、驚くほど何もなかった。
神の像も祭壇も、炎も、天井から差し込む光もなかった。
ただ、広い空間だけがあった。
花を抱いていたスーツ姿の男は、花を置く場所を探した。しかし床には何もなく、供えるための台もない。男は迷った末に花を足元へ置いた。しばらくその場で立っていたが、誰かに受け取られることはなかった。
そのとき、誰かが声を上げた。
「偉大なる神よ」
声は神殿の中を進み、壁に触れ幾重にも反響した。
偉大なる神よ。
偉大なる神よ。
偉大なる神よ。
やがて言葉は弱くなり、何にも触れないまま消えた。
羽根を持つ者が、人間には分からない言葉で讃えた。その声は人間のものより澄み、聞いた者の胸を震わせた。
それでも、何も起こらなかった。
角を持つ者が笑った。「ほら見たことか。お前たちの神など、どこにもいない!」
その声は強く、神殿全体を揺らした。だが、その否定もまた、何も掴まなかった。
聖者がゆっくりと前へ出た。その者は両手を組み、静かに祈った。
「ああ、救いたまえ。あなたを言葉で語ろうとする傲慢から」
「あなたを形に閉じ込めようとする未熟さから」
「あなたへ名前を与えようとする無知から」
その声は、それまでのどの祈りより深く神殿へ入っていくように聞こえた。
それでも最後には消えた。
祈りだけが、特別に残ることはなかった。
白い鳩を抱いていた者が、籠を両手で持ち上げた。
「争う者がいなくなり、誰もが幸福になりますように。苦しむ人が救われ、世界が優しい場所になりますように」
籠の扉が開かれた。鳩は神殿の中を一周した。何度か羽ばたいたあと、足元に置かれた白い花のそばへ降りた。
次に商人が前へ出た。商人は床へ秤を置き、分厚い帳簿を開いた。
「私はこれから人を欺きません!財産の一部を貧しい者へ差し出します。毎朝祈り、悪い習慣を改め、あなたの名を広めることを約束します」
商人は帳簿の最後の頁を開いた。
「ですから、どうかあなたもお姿を現してください。私が捧げるものに見合う証をここへお与えください!」
頁の下には、署名のための空白が残されていた。商人が帳簿を床へ置こうとしたとき、
「ねえ」
子どもが、母親を見上げて言った。
「神さまは、自分が神さまだって知ってるの?」
商人の手が止まった。
誰も答えなかった。
子どもは今度は神殿の奥を見た。
「自分が神さまだって知っていたら、神さまと、神さまを知っている誰かがいることにならない?」
聖者は、子どもを見た。
子どもは少し首をかしげた。
「神さまの外に、誰かがいることになっちゃうよ」
誰も何も言わなかった。
「だから神さまは、自分を知らないのかもしれないね」
少し考えてから、続けた。
「知らなくても、神さまなのかもしれない」
母親は子どもの手を握ったまま、何も教えなかった。
しばらく、誰も動かなかった。
聖なるかな
神殿の奥で、誰かがもう一度声を上げた。
「聖なるかな」
最初は、人間の声だった。
「聖なるかな」
次に羽根を持つ者の声が重なった。
墓地から来た者が口を開いた。
王冠を置いてきた王も、罪人の名札を外した男も、同じ言葉を口にした。
角を持つ者は黙っていた。それでも、やがてその口からも同じ言葉が漏れた。
「聖なるかな」
三度、声が響いた。
だが、何を聖なるものとして讃えているのか、誰にも分からなかった。
像も名前もない。
声だけが起きている。
声を聞いていることが起きている。
花を抱いていた男は、足元へ置いた花を見た。
花は少し萎れていた。それでも、花は花のままだった。
鳩は花のそばで羽根を休めていた。
商人の帳簿は開かれたままだった。署名欄には、何も書かれていない。
刃を握る者は、刃を床へ置かなかった。
神殿へ入ったからといって、彼らの形が消えたわけではなかった。
ただ、誰もそれを自分のすべてとは言わなかった。
やがて声は止んだ。
声が現れるより前から、それは変わらずにあった。
沈黙と名づける者がいなくなったあとにも。
行進は続く
神殿を出ると、夜が明けていた。
門番は、変わらず門の前に立っていた。
聖者と呼ばれていた者は、その前で一度だけ足を止めた。何かを言おうとしたようにも見えた。しかし、何も言わなかった。
門番も何も尋ねなかった。聖者と呼ばれていた者は、布をまとったまま人々の列へ戻っていった。
門の脇には、置いてきた名前が積まれていた。
人々は、それぞれ自分の名札を拾っていった。名札の表には名前や役割が書かれていた。裏返すと、何もなかった。
王は再び王冠をかぶった。
ただ、門をくぐる前のように深くはかぶらなかった。
スーツ姿の男は、曲がったネクタイを直した。
それから、萎れかけた花を拾った。
少し先を歩いていた子どもへ、何も言わず差し出した。
子どもは母親を見上げた。
母親は微笑みながら小さくうなずいた。子どもは花を受け取った。
墓地から来た者は、自分の肩に残っていた土を払わず、そのまま墓地へ戻った。
刃を握る者は、まだ刃を握っていた。ただ、握っている自分の手を、しばらく見ていた。
角を持つ者は、商人の隣へ歩み寄った。
帳簿の空白を見て、少しだけ笑った。
何か言おうと口を開いたが、そのまま閉じた。
商人は気づかなかった。帳簿の最後の頁を閉じて、そのまま脇へ抱えた。
角を持つ者は商人のそばを離れ、羽根を持つ者の隣へ戻った。二人は何も言わず、そのまま歩き続けた。
鳩を連れてきた者は、扉の開いた籠を持って歩いた。
鳩は籠へ戻らず、行進の少し上を飛んでいた。
世界は、何も変わっていないように見えた。
名前は再び、それぞれを分けていく。
その名前がなければ、朝の電車にも乗れない。墓へ帰ることも、人と会話を交わすことも、花を誰かへ渡すこともできない。
人々は名札を胸につけ直した。
子どもだけは、置いてきた名札を探さなかった。
最初から持っていなかったのか、それとも、どこかへ落としたのかは誰にも分からなかった。
母親が子どもの手を握る。
「帰ろうか」
「うん」
「お腹すいた?」
「すいた」
「何か食べて帰る?」
子どもは少し考えて笑った。
「手料理がいい」
「じゃあ急がないとね」
二人は朝の街へ歩いていった。
行進は続いた。
どこかから声がした。
「聖なるかな」
誰が言ったのかは分からなかった。
誰も、その言葉の行き先を探さなかった。
行進は、朝の光の中を進んでいった。


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