空中に咲く花があると言われても、たぶん誰も信じないだろう。
根も葉もないとは、まさにこのことだ。土に触れてすらいない。
こういう話は、すぐに「ないもの」として片づけられる。
だが、湖の底に、まだ見つかっていない巨大な生物がいると言われると、話は少しだけ変わる。
その湖は、湖岸を一周すると四十キロ近くあり、最深部は七十メートルを超えるらしい。水は緑がかった灰色に濁り、岸から少し離れるだけで、底は完全に見えなかった。
何年も前から、湖面に巨大な黒い影を見たという話があった。
ぶれてはいるが、証拠らしい古い写真も一枚残っている。その写真は一度、地方紙やオカルト雑誌にも載ったらしい。
空中の花より、断然信じやすい。
だから、探索が始まる。
男も、はじめは一度だけ見に行くつもりだった。
休日の朝、散歩がてら湖へ向かい、双眼鏡で水面を眺めた。黒っぽいものが浮かぶたび、学生時代に買った古いデジタル一眼レフを構えた。
だが、近づいてみれば、たいてい流木かゴミだった。
湖岸には、男と同じようにカメラを持ち、水面を見ている人々がいた。
ある日の昼、長い影が水中を横切った。周囲にいた人々も騒いだ。
あとで映像を確認すると、数匹の大きなコイが一列になって泳いでいただけだった。
翌週の土曜、男は目覚ましが鳴るより早く目を覚ました。
前の晩、買い足した機材を整理していて二の腕をつった。朝になっても鈍く痛んだ。
それでも充電を済ませたカメラを鞄へ入れ、男は朝食も取らずに湖へ向かった。
何度か通ううちに、双眼鏡は倍率の高いものへ替わった。カメラも変わった。
連写のきく本体に長い望遠レンズがついた。遠くにいる水鳥の羽の模様まで写せることに、男は驚いた。
次は、水中へ沈めるカメラも買うつもりだった。
何も見つからない日が続いても、男はそれが失敗だとは思わなかった。
ある日は風が強すぎた。別の日は湖へ着く時間が遅すぎた。
巨大な身体に反して、ひどく警戒心の強い生き物なのかもしれない。こちらの気配に気づき、深い場所でじっとしているのかもしれない。
理由はいくらでも思いついた。
数か月後、男は久しぶりに古い知り合いに会った。
休日に何をしているのか聞かれた。いつもなら、少し考えるふりをするところだった。
その日は、
「カメラを持って湖へ」
と答えた。
何をしに、と聞かれると、
「まだ見つかっていないものを探しに」
とだけ言った。
知人は一拍置いて、それ以上は聞かなかった。
その後、湖の話が出ると、以前より会話が長く続くようになった。男の方から、カメラの話をしたり、湖で撮った写真を見せたりすることも増えた。
「最近、変わったね」
そう言われたこともあった。
その言葉は、悪くなかった。
*
ある朝、湖へ着くと人々が騒いでいた。
顔見知りの一人が、男を見つけて呼び止めた。
「この動画、見ましたか?」
スマートフォンの画面には、湖の中央をゆっくり進む大きな黒い影が映っていた。
これまで出回っていた写真や映像より、輪郭がはっきりしていた。
これこそ巨大生物の証明だと言う者がいた。水鳥の群れが重なって見えただけだと主張する者もいた。
やがて映像の話は、撮影した人物の話に移った。
撮影者も、その場に来ていた。男も何度か見たことがある人物だった。
以前、撮影者は男のカメラを見て、
「それ、オートで撮ってるんですか」
と言ったことがある。
言い方そのものは自然だった。それでも、その一言だけが男には苦く残っていた。
撮影者は、過去にも正体の分からないものを撮影し、写真や映像を雑誌へ投稿しているらしい。動画が広まってからは、湖岸でスマートフォンを見せながら、何度も同じ説明をしていた。
男は、その姿があまり好きではなかった。
それに映像も、本物だとは思い切れなかった。
水鳥かもしれないし、波が重なっただけかもしれない。注目を集めたいだけではないかという疑いもあった。
それでも、見覚えのある細身の男が、
「あの映像だけでは、何も証明できないでしょう」
と言ったとき、男は反論した。
その人物は、いつも同じ手帳に水温や風向きを書き込んでいた。男は心の中で、彼のことを「手帳の男」と呼んでいた。
「でも、水鳥や普通の魚なら、あんな大きさで、あんなふうには動かないでしょう」
男がそう言うと、手帳の男はスマートフォンの画面を見たまま答えた。
「水鳥ではないかもしれません」
「でしょ。だったら、噂の巨大生物かもしれないでしょう」
「何かが映っていることと、それが巨大な生物だということは別です」
「でも、分からないじゃないですか」
手帳の男は、そこで初めて男を見た。
「ええ。分からないから、まだ決められないんです」
男は、その言い方が気に入らなかった。
少し離れたところでは、例の撮影者が別の人に映像を見せていた。
男はそちらを見ないまま、
「何でも否定すればいいというものじゃないでしょう」
と言った。
手帳の男は答えなかった。
結局、調査は何度か行われたが、その正体は分からなかった。
何も見つからなかったことを、やはり巨大生物はいない証拠だと言う人がいた。まだ調べ切れていないだけだと言う人もいた。
やがて、同じボートには乗らなくなった。
湖の地図には一本の線が引かれた。
それぞれのボートは、GPSで位置を確かめながら、その線を越えないように動くことになった。
男は、自分たちが翌朝調べる場所へ赤い印をつけた。撮影者も、同じ地図を覗き込んでいた。
手帳の男は、もう一方のボートに乗った。
出艇する桟橋と、機材を置く駐車場は一つしかなかった。
手帳の男とは顔を合わせても、以前のように天気や水温の話をすることはなくなった。
*
ある土曜日、湖には朝から小雨が降っていた。
出艇前、男は広角カメラを自分たちのボートの船尾に固定した。
昼を過ぎるころには雨脚が強まり、両方のボートが予定より早く戻ってきた。
人々の車が次々と駐車場を出ていき、その音が途切れると、湖は急に広くなったように見えた。岸では、畳み損ねた青いビニールシートが、風に煽られてめくれ上がっていた。
男は桟橋の近くで、濡れた機材を片づけていた。
駐車場の端には、手帳の男が一人残っていた。手帳の男は、濡れたコードを一本ずつ束ねていた。
二人は一度目が合ったが、どちらも元の作業に戻った。
手帳の男が大きなバッテリーケースを車へ運ぼうとしていた。
一度持ち上げたが、片側が地面へ落ちた。
もう一度持ち直す。
また腕から滑り落ちた。
男はしばらく黙って見ていた。
自分の機材を地面へ置き、無言で手帳の男のケースの反対側を持った。
「いいです」
手帳の男が言った。
「重いでしょう」
「本当に結構です」
「早く帰らないと、風邪ひきますよ」
男はそう言ってケースを持ち上げた。
二人で車へ向かった。
数歩進むと、ケースが男の側へガタッと傾いた。
「そっち、少し上げてください」
手帳の男はそう言ったが、声は雨音にかき消された。
「何ですか」
「そっちを上げてください」
「上げてます」
二人は足元を確かめながら、ケースを荷台まで運んだ。
載せ終わると、手帳の男が小さく息を吐いた。
「どうも」
「うん」
男は自分の機材の方へ戻りかけた。
二、三歩進んだところで立ち止まり、振り返った。
「ひとつ、聞いていいですか」
手帳の男は荷台の奥へケースを押し込んでいた。
「何です」
「どうして、そんなに否定するんですか」
ケースが金属に当たる音がした。
手帳の男の手が止まった。
しばらく雨音だけが続いた。
「私も、一度だけ見たことがあるんです」
男は、一瞬何を言われたのか分からなかった。
「何をですか」
「湖の中を、黒いものが動いていくのを」
手帳の男は、こちらを見なかった。
男は一歩、車へ戻った。
「じゃあ、なぜ、いると思わないんですか」
手帳の男は返事をせず、ジャケットの内側から手帳を取り出した。
何度も開かれたせいか、表紙の端が白く擦れていた。
ページを探し、途中で一度指を止め、また数枚戻った。
「この日です」
開かれたページには、日付の下に、水温、気温、風向きが細かく記されていた。
その最後に、ほかより少し乱れた字で書かれている。
午前五時十二分。無風。雲量ほぼゼロ。
湖面北側の広い範囲に暗部。
南方向へ移動。約十七秒。
鳥影なし。目立った波なし。原因不明。
雨粒が一つ、ページの端へ落ちた。
手帳の男は親指で拭ったが、字が少し滲んだ。
「北側の水面が暗くなって、そのまま南へ動いたように見えたんです」
「そんなに大きなものを見たんですか」
手帳の男は、すぐには答えなかった。水滴のついたページを見たまま、手帳を閉じた。
「ええ、そう見えました」
「だったら、やっぱり――」
「大きすぎるんです」
男は黙った。
雨音の向こうで、波が桟橋の下へぶつかっていた。
「見間違いだったんじゃないですか」
しばらくして、男が言った。
手帳の男は手帳をジャケットの内側へ戻した。
「そうかもしれません」
荷台へ手を伸ばしかけ、また止めた。
「だから、今も来ています」
手帳の男は荷台を閉めた。
二人は、それ以上話さなかった。
*
その夜、男は濡れた上着を椅子にかけたまま、昼間に撮った映像を見返した。
画面の手前には、自分たちのボートの船尾が映っていた。その向こうから、手帳の男たちのボートが近づいてきた。
風に流されたのか、二隻は地図に引いた線の近くまで寄っていた。
二隻のあいだを、黒いものが横切ったように見えた。
男は映像を止めた。
少し巻き戻した。
再生する。
そして、速度を落とした。
画面を拡大すると、黒い影の輪郭は崩れた。
何かが水の下を動いたようにも見えた。
二隻のボートが起こした波が重なっただけにも見えた。
男はもう一度、最初から再生した。
やはり分からなかった。
昼間に見た手帳のページを思い出した。
午前五時十二分。
湖面北側の広い範囲に暗部。
約十七秒。
原因不明。
男は天気予報を開いた。
翌朝は雲がほとんどなく、風もほとんどないらしい。
机の端には、先週届いたばかりの水中カメラが置かれていた。
男は天気予報を閉じ、目覚ましを四時半に合わせた。


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