光と闇への直視
前回の「私の探究遍歴 ②」の記事で、一瞥体験のあと私の中に残ったものについて書きました。
当時私は、とにかく「ほんとうのこと」を知りたかった。
私はあらゆる本や普遍的な教えに触れ、瞑想や内観をして、いろいろな方向から、この「自分」というものを見ていく時間が増えていきました。
ところが、探究を続けているうちに少し厄介なことが起き始めます。「ほんとうのことを知りたい」という欲求は、世界や宇宙という外側に向かうと思いきや、その矛先は、次第に自分自身の心にも向かうようになっていったからです。
自分の心。
自分が何を感じ、何を求め、何を誤魔化しているのか。何を本当だと思い込み、何を本当じゃないと信じているのか。パーソナリティの中の見たくなかった部分や矛盾まで、否応なく向き合わなきゃいけない流れになっていったんです。
「本当のことを知りたい」という火がついてしまったばかりに・・。
自分に嘘をつくということ
「嘘をついてはいけない」
こういう言葉がありますね。
子供の頃おばあちゃんによく聞かされました。
あと、「お天道様に嘘つくな」みたいなことも言っていました。
道徳的には確かに嘘つくよりつかない方がいいですよね。
しかし、「いつでも、思ったことや感じたことを何から何まで正直に話さなければならない」ということになると、人間関係や社会で生きていくのはある意味難しいのも事実。
この「嘘をついてはいけない」という言葉を道徳の観点ではなく、真理の文脈に持っていくとどうなるでしょうか?
私にとって、だんだん重要だなと思うことがありました。
それは、「自分に対して嘘をついてはいけない」ということです。
*
たとえば、何かによって深く傷ついたとします。
その時、「悲しい」「悔しい」「怖い」「寂しい」「もう無理」みたいな気持ちが、強烈に湧き起こります。
ところが、その気持ちを認めるには、勇気や大胆さ、自分に対して意識的に「そう感じていてもいい」とまず許容する気持ちが必要になります。
なぜなら心の中で起きているものを作為的にどうにかしようとしたり、裁こうとすると、心は自分を守るために、別の説明を作り始めるから。
たとえば、そのとき実際にはかなり傷ついていたとしても、「別に大したことじゃない」と思い込んだり、本当は欲しいけど「別にどうでもいい」と、振る舞うことがあります。
しかし、どう思い込んだとしても、本音の痛みのようなものは残り続けます。
私は時間をかけて、その残っている痛みが一体どこから来ているのかを、何度も振り返っていきました。
その当時、走馬灯のように人生を隅々まで回想していきました。
そうすると、ある時「ああ、実は自分はあの時、めちゃめちゃ傷ついて怖かったんだ」と、その当時には消化できなかった気持ちに出会い、何度も何度もアクセスすると、少しずつ、その気持ちとの「分離」がなくなっていく。
私はこのようなことを行う時間が不思議と増えていきました。
押し入れの奥
自己欺瞞という言葉があります。
この言葉について私は、「自分に嘘をついてはいけない」とか「自己欺瞞に対してどうのこうの〜」と何か偉そうに言いたいってわけじゃなく、
単純に心って、大なり小なり欺瞞的に動くことがあるという話です。
なぜかというと、それによって自分自身を守り、生きるためというか前へ進むために必要な場合も多くあるからです。なので、自己欺瞞=単純に悪とも言えません。
ただ、探究が進むと、そのしまい込んだ過去の押し入れを閉ざしたままでは、なかなか先へ進まない時があります。
心との同一化を溶かし、心をなだめていくために、心の未練というか、成仏できない感情や無念さたちに耳を傾ける必要がある場合があります。
そのため、きついけど、押し入れと向き合わざるを得ない、いや、むしろそうしたいと思うタイミングが、当時の私に訪れました。
世界との協力プレイ
瞑想や内省、内観というと、
心が静かになったり、楽になったり、平和になる時間を想像するかもしれません。マインドフルネスとか、ヒーリング瞑想やチャクラを癒すみたいなイメージもあります。
しかし、先ほど言ったような押し入れの奥へしまっていたものを容赦なく浮かび上がらせる時間は、私にとって苦行に感じる瞬間もありました。
自分の意志で近づこうとしても、簡単にすぐアクセスできる領域のものばかりじゃないからです。
そういう場合、宇宙とはよくできてるもので。笑 自分の内側にある観念や想念を知らせるように、まるで世界の側からヒントを渡されているような出来事や現象が起きることがありました。
たとえば、誰かの何気ない一言でなぜか動揺したり、些細な出来事のはずなのに妙に胸が締め付けられたり、そこでその反応を深く見ていくと、目の前の出来事だけに反応していたというより、その出来事によって、昔押し入れの奥へしまったものが表へ引き出されていたことに気づきます。
隠しきれないもの
そのように、心の中に嫌な動きを感じた瞬間に、「これは悪なり」「こんな自分ではダメだ」「これはいけないことだ、消そう」と攻防戦の渦に呑まれていくと、
そこからさらに別の反応が連鎖していき、やがてその元の動きは地下へ潜っていってしまいます。
また、抵抗すればするほど、かえってその心は「手に負えないリアルさ」を帯びてくる。心という幻想を見抜きたいのに、心を見ること自体を心が怖がっている構図です。
ところで、一体なぜこれほどまでに怖いのでしょうか。
その心の動きの全貌が、気づきの光に照らされると「これが唯一の自分だ」と信じてきた世界観や物語まで強く揺さぶられるからです。
自分はこういう人間だと思っていたのに、その確立された自分とは似ても似つかないまったく別の色や、何の色もついていない気配を感じる。
その微細な気づきの力や、存在感の香りは、まるでこれまで積み上げてきた塔を崩し、何もない平らな大地へ戻していくような感覚を呼び起こします。
その一方で、自分が信じてきたものと対立する信念も次々に現れてくる。すると、自分の中に正反対のものが同時にあることになり、「じゃあ一体どれが本当の自分なんだ」と、一瞬何を信じていいのか分からなくなってくる。このような自分の中の矛盾を見るのは、結構ショックですし、驚くものです。ある意味興味深く、面白いとも言えますが。
そんな時に私はいつも思い出しました。
「エゴと戦ってはいけない」
自分の作り上げた物語も、実際に起きている心の動きも、その矛盾を怖がる心も、それぞれがあるがままに起きています。
そういうあるがままに動く心を「こんなのはダメだ」と許せないままでいるとします。
すると、自分の中に嫌な感情や考えが出てくるたびに、心はそれをまた押し入れの奥へ隠そうとします。見せるたびに否定される場所には、心もなかなか姿を見せたくないんですね。
反対に、自分の中に何が出てきても、「それを見ることくらいは許されている」という感覚が少しずつ浸透してくると、それまで隠れていた奥のものも少しずつ姿を見せるようになります。
とまあ、なぜかこのように、時間をかけ、私は自分自身の心の探究に入り込んでいく流れとなり「癒し」と「真理探究」は、いつの間にか切っても切れない関係になっていました。
ここで、先ほど挙げた我がおばあちゃんの「お天道様には嘘つくな」という言葉に戻ると、
私にとって「自分に嘘をつくな」という言葉の意味は、いつしか「自分には最初から完全な嘘などつけなかった」というものに変わっていました。
心は自分を欺きますし、思い込むこともあります。
ただ、その動きを発生させる存在。常に照らしている存在そのもの自身には、最初から最後まで何ひとつ隠し通せていなかった。
押し入れを開けても閉じても、そこに何が入っていても、自分が何かを許してあげるより先に、「許せない」という動きまで含めて、すべてはずっと許され続けている。そのことが次第に明らかになってきたのです。
内なる終戦
醜さも美も、純粋も汚れも、計算もひたむきも、弱さも強がりも、ずっと隠してきたものも、自己欺瞞も、そしてそれらに抵抗する心まで、最初からここに現れることを許されている。
だから、「あるがまま」とは、何も抵抗せず、いつも穏やかで、すべてを受け入れている状態を維持するような人格や精神態度ではなく、心の中に何が起きても、それ自体がすでに「あるがまま」として現れていたのでした。
私たちの心。心の地下の奥の奥で蠢く積年の念たち。
彼らを正義や論法で成仏させようとする必要がなくなった時、逆説的に彼らはその光の中でようやく成仏していけるのだと知らされたのです。


コメント