「一番古い記憶は、たしか家だった」
彼はそう言ってからしばらく考え込んだ。
私たちは窓際の席に座っていた。店内には小さな音で音楽が流れている。
外は暗くなりかけて、激しい雨が地面をうちつづけていた。テーブルの上では、彼のほとんど手をつけていないコーヒーカップから湯気が立ち上っている。
「家?」
私がそうたずねると彼はゆっくり頷いた。
「うん。でもあくまで家のようなもので。よく覚えてないんだ。そもそも、そんな呼び方をしてたのかも分からない。誰かにこんな話をするなんて、すこし奇妙な感じがするよ」
「大丈夫だよ、続けて」
それからしばし沈黙があった。
「ただ、そこではひとりだった記憶がちっともないんだ」
彼はそう言ったあと、窓の外を見た。
「はじめは、ほんの気まぐれだった。あるとき家を出ようとなぜか思い立ったんだ。見たことのないものを見たい気持ちになった。帰ろうと思えば、いつでも帰れると思ってた」
「それで?」
「迷った。たぶん、そんな感じ」
彼は髪をぐしゃぐしゃと触りながら続けて言った。
「いつ、どの角を間違えたのかは分からない。来た道を戻ったつもりなのにそこも違った。一本向こうかなと思って戻ってもそこも違う……そこから先は、もうところどころ抜けてる。次に覚えてるのは街で知らない家にいたということ」
「知らない家?」私は相手の言葉を繰り返した。
「うん」そう言ってから彼は少し考えた。
「こんな言い方すると、妙に聞こえるかもしれないけど。街が僕を拾ってくれたみたいな気がしたんだ。気づいたら食べるものをくれる家族と寝る場所があって、父親と母親がいて、僕以外の子供もいた。母親は僕に『今日から家族だから』って、たしかそんなようなことを言ったんだ」
彼は窓の向こうに答えがあるように、じっと見つめながら言った。
「そのとき家族って、なるものなんだと思ったのを覚えてる」
私は続きを待った。
「ある日机に置いてあったものに触ったら、『それはお兄ちゃんのだからダメ』って言われた。別の日には僕のものを渡されて、『これはあなたのだから、なくさないようにね』って。すぐに覚えたよ。自分のものは、自分のところに置いて、人のものは勝手に触らないとね」
店員が新しい水を置きに来た。私は軽く頭を下げた。
「兄が褒められてても、最初はべつに何とも思わなかった。ある日『あなたもお兄ちゃんみたいに、この街でうまくやれるといいわね』って言われてから、兄が褒められると少し嫌な感じがするようになった」
「うん」
「前の日まで一緒に遊んでた普通の同じ子供だったのに。でもよく考えると兄は、周りの大人たちからしょっちゅう褒められていた。褒められる方と、そうじゃない方があるって分かったら、できない方になりたくなくなった」
彼はカップに手を伸ばすと、補足するように続けた。
「それでもみんなのことは好きだったよ。たぶん。父親は帰りが遅い日が多くて、母親がどんな時に機嫌がいいのかも、兄がどんなことで怒るのかも分かるようになった。兄とは何度も喧嘩したけど、いつからか僕もそこを家って呼ぶようになった。街のことも、前ほどよそよそしく感じなくなった。だからさっき話した家のことは、だんだんと思い出さなくなった」
「そのあとは?」
「父親と母親が、何度も喧嘩するようになった。ある日、父親が家を出た。『いつ帰ってくるの?』って聞いたら、『もう一緒には暮らさない』って言われた」
彼は一度カップを持ち上げて、また置いた。
「『家族なのに?』って聞いたよ」
「そしたらなんて?」
「覚えてない。でも、家族でも離れることがあるんだってその時知ったよ」
店内に流れていた曲が終わると、すぐに別の曲が始まった。
「そのあと、僕は比較的早いうちから仕事をしたんだ。そこでも、最初はいろいろなことがあったよ。ある時、人と一緒にやった仕事を、別の人が自分一人の手柄みたいに話してた。その人だけ評価されてたから『それ、僕もやったんですけど』って言ったら、『この街では、そういうのは自分で言わないと取られるよ』って笑われた」
「取られる、か」
「そう。それで僕は何度も同じことを聞いた。自分がやったことって、言わないと取られるの?って」
彼は笑って、しばらく黙り込んだ。
「それ以来ガンガン言うようになったよ」
「なるほどね」
「でもお金がない時期もあった。昨日までよく連絡してきた人が離れていって、仕事がうまくいき始めたら、今度は知らない人まで僕のことを知っていた。あの時も少し変だったな。僕はずっと同じ僕なのにね」
「不思議な気分になった?」
「うん。でもこの街に長くいると、みんな少しずつ似てくるんだ」
「似てくるって?」
「見た目というより、なんだろ、雰囲気かな。この街に馴染むと誰でもそうなるさ。独特の雰囲気。そういうものがだんだん染み付いてくる」
彼は視線をカップへ落とした。
コーヒーカップから湯気はもう出ていない。
「それでも僕にとって街は面白いところだったんだ。友人もできたしね。くだらないことで笑って、仕事が終わってから何時間も話をしたよ。夏の夜には二人でぬるいビールをよく飲んだな。街のいちばん端にあるバリケードの手前を、綺麗な川が流れてるだろ?春になると毎年あの川沿いへ行ったよ」
彼は一度だけ息を吐いた。
「でもその友人が、ある時から変なことを言い始めたんだ」
「変なことって?」
「街の外があるとか、雨の降らない空があるとか。はじめはなにかの冗談だと思ってたよ」
「でも本気だった?」
「かなりね。そいつ、川の向こう側を何時間も見てたり、夜になると街の端まで行ったりしてた。正直、頭がおかしくなったと思ったよ」
私はしばらく黙って彼の顔を見ていた。
「でも、ある時期から急にその話を一切しなくなった」
「諦めたのかな?」
「僕もそう思った。でも、なんだか前とは違ったんだ」
「何が?」
「前より普通に街にいるのに、前より街にいない感じがしたんだよ」
「本人に何か聞いた?」
「気になって尋ねてみたけど、本人は何も説明しなかった。ただ、前みたいに街のことを怖がったり、嫌ったり、街の外へ出たがったりしなくなった」
彼は一度口を閉じ、それから言った。
「僕には、今でもよく分からない」
雨は変わらず降りつづいている。通りを無数の傘が行き交っている。
「そのあとも、いろいろあったよ。この街ってさ、空いた場所があるとすぐに別の何かが入るんだよね。店がなくなれば別の店ができるし、誰かがいなくなれば、しばらくすると別の誰かがそこにいる。昔そこに何があったのか思い出せなくなるくらい、何事もなかったみたいに続いていく」
「そういう感じ、あるね」
「うん。それでも僕はずいぶんと街に馴染んでるし、あいつみたいに街の外に何があるかなんてちっとも興味ないし、そういう話は性に合わないと思ってた」
「うん」
「なのに近頃、考えても仕方ないような昔のことばかり考えてる」
彼はそう言ったあと、コーヒーカップを握ると、残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
「昔のことって、もしかして街に来る前の話?」
「たぶんね。でも、その『昔』がもう分からないんだよ。街に来る前の家のことも、だんだん分からなくなっていった。どこにあったんだっけって考えても薄っすらとした記憶さえもう出てこない。帰り道も分からない。自分がどこから来たのか。どんな場所から来たのかほとんど思い出せない」
「その家を真剣に探そうとは思わなかった?」
「思わなかった。そんなこと考えるより、街で必要なことを覚えて生きるだけだった」
彼はカップの縁を指で何度も何度もなぞった。店の扉が開いて、何人かの客が入ってきた。傘をたたむ音と話し声が店内に広がった。
「だけど最近、妙に胸騒ぎがするんだ」
「胸騒ぎって、どんな?」
「自分でもどうかしてると思うんだけど……こないだ毎日かかさず持ってるはずの傘を持ち忘れて、軒下で雨宿りしたんだ。向かいに知らない家があった。窓に明かりがついてて、中で誰かが動いてた。笑い声が聞こえて、夕食の匂いがしたよ」
窓の外には今も同じような雨が降っている。
「急に帰りたくなった」
「どこに?」
「分からない」
答えは早かった。
「目の前にも家はあった。自分が住んでる家だってある。でも、そこじゃない。街に来て最初に暮らした家、母親と兄のいるあの家でもない。どこか違う」
「何と比べて、そう感じたんだろうね」
彼は初めて少し困ったような顔をした。
「しいていうなら、やっぱり家かな」
「じゃあその家が、たとえば『街の外』にあるとは考えなかった?」
私がそう言った時、隣の席から聞こえていた話し声が止まった。少し離れた席で新聞を読んでいた男が、紙面から顔を上げてこちらを見ていた。
彼もこちらを見た。
「いま街の外って言わなかった?」
「うん、言ったよ」
「ひょっとして君は街の外について何か知ってるのかい?」
「さあね。でも、君が何の話をしてるのかは分かるよ」
店員が空いたグラスを下げに来た。左手の人差し指に細い銀色の指輪をしていた。グラスを下げながら、一度だけこちらを見た。
「もしよかったら、おかわりはいかがですか」
彼は首を振り、片手を軽く上げた。
「大丈夫です。ありがとう」
彼は再び窓の外へ目を戻した。しばらくすると、隣の席からまた話し声が聞こえ始めた。
「そういえばさ」
彼が言った。
「じつは前に、君とここに来る夢を見たんだ」
「このお店?」
「うん。この喫茶店。たぶん席の位置まで同じだった」
彼は続けて言った。
「そうだ。さっきの店員もいた。おかわりを聞きに来て……待てよ、たしかあの指輪もしてた?」
私は自分たちの座っている席を見た。
「それで?」
「外を見たら、たくさんの人が歩いてた」
「でもなぜか、誰一人として傘をさしていないんだ」
彼はそこで言葉を選ぶような間を置いた。
「それだけじゃない。やけに空がなんていうか、澄んでいたんだ。そして、君が、空を見ながら僕に何か言ったんだよ」
「なんて言った?」
「思い出せない。ただ、手のひらをしばらく見たあと、ゆっくり目を閉じてみてって言われたことは覚えてる」
「それで目を閉じた?」
「うん。夢の中なのにね」
彼は記憶をたどるように黙った。
「そしたら、突然世界の音が遠のいた」
彼はそこで私を見た。
「さっき君が『街の外』って言っただろ?それで、あの夢を思い出したんだよ」
彼は窓の外へ目を戻した。外では信号が点滅し、やがて色が変わった。雨の中を大勢の人が歩き始める。
私たちはしばらく無言でその人たちを眺めていた。
「でも、たぶんここじゃないんだよ」
「何が?」
「家」
彼は少しだけうつむいた。
「変な話だよね。僕、街は嫌いじゃないんだよ」
「うん、わかるよ」
雨で窓の向こうの灯りが少し滲んでいた。通り過ぎる車のライトが窓を横切った。
「家があった。あったことだけは覚えている」
彼はそう言い終わると、なみなみと入ったコーヒーカップに目をやった。
そして、もう一度だけゆっくりとカップの中を覗き込んだ。
私はその様子を見て言った。
「あのさ、瞑想って興味ある?」


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