問い
自分は長いこと悟りを求めています。
自我や世界が本当ではないと聞くと、最後には何も残らないように感じます。
光と一体になると言われても退屈そうですし、完全な無や虚無へ消えることを考えるととても怖くなります。
そもそも自分は、悟りの先にある何かを勝手に想像して、それを怖がっているのか。
悟りの道のゴールとは、本当はどのようなものなのでしょうか?
応答
自我にとっては、そう見えることがあります。
自我は、「何かがあること」しか想像できません。
自我、もっと言えば、心には「無いこと」や「無」は想像できません。
通常「自分とはこういう人物である」という心の中の設定があります。
例えばあるとき、見知らぬ人に自己紹介をしなければならないとします。
どこまで自己開示するかは置いておいて、そこでは「自分とはこういう人間である」という「個と世界の物語の開始から現在までの時間軸で起きたこと」を説明するでしょう。
そしてそれについてどう判断して思っていてどう感じているか、つまり体験と記憶と心の動き方をもって「自分とはこうである」と伝えるでしょう。
まず朝目を覚ますと、個人としての世界観が始まります。
ある意味それは非常に安定した法則がちゃんと働いているように見えます。
身体があり。世界があります。私という第一前提の思考がそこに結ばれます。
整合性がちゃんと発生します。朝起きたら突然身体の重さが十倍になっていたり、重力の向きが変わっていたり、全く知らない時代や環境がランダムにそこにあることは普通ありません。
まったくの別人として、性別も時代も環境も違うところから昨日の続きが始まる、というSF的展開にもなりませんね。宇宙的整合性がちゃんと働いています。一年前と昨日が流れていて、いつもの自分として続きが始まります。
そのため自我は自我としていつもの自分、いつもの世界がそこで成立します。
考えている私がある。幸せがある、不幸がある、安らぎがある、苦しみがある。
「自分には〇〇がある」あるいは、「自分には〇〇がないという想いがある」
つまり「何かがあること」それが当たり前であり、前提なわけです。
そんな中、「自我や世界だけがすべてじゃない」と聞いたとしましょう。
もし耳にその言葉が入っても、心からしたら「心、自分、自我というものを何か否定された」気さえするかもしれない。
それでも関心が深まれば、「じゃあ本当の私はどんななんだ」と考えるでしょう。
心はあるものを想像します。本当の私に思いを馳せれば、その想像はさまざまです。「光」かもしれない。「空」かもしれない。何か神的な「広大な力」かもしれない。そして「完全な無」や「虚無」かもしれません。
しかし、ここで見たいのは、それらのイメージも自我が想像したものです。
それが虚無のイメージだとしたら、真っ暗な空間。何も感じない状態。永遠に続く退屈。自分が消滅したあとに残る無を心は思うかもしれません。
そこには「何かしらの対象的イメージ」と「それをイメージしている主体」が成立しています。
「私は消えて、虚無だけが残る」という物語的な「イメージ」になっているからです。
あなたは熟睡して、朝起きて振り返って、「自分は何も残らなくて怖かった」「光と一体だったけど退屈だった」「完全な無、虚無だった。私は消えていてとても怖かった」とは熟睡中には言えないわけです。
それでも朝になれば、「自分は眠っていた」と言います。
夢の中でそういうイメージの夢を見ることはあるかもしれない。けど、あなたが起きて、そう言えるのは「主体である自我」が「悟りという対象のイメージ」があるからこそ発言できるのです。
*
ここで思考実験してみましょう。
私とあなたで空想の生物を作ってみましょう。
その生物は空想です。よく人が空想することは現実となる可能性を孕んでいるという説がありますが、
ここでは絶対に想像である生物です。完全な空想。つまりこれまでも、これからも宇宙のどこにも誕生できない生物です。
名前も決めましょう。見た目も決めましょう。
「ケルトネシプ・メルディス」
ライオンと同じくらいの大きさ。
全身は灰色の毛に覆われ、頭には鹿のような角が一本だけ生えています。目は三つ。歩く時には、少し金属の擦れるような音がします。
さて、ケルトネシプ・メルディスは「自分は怖い」と感じるでしょうか?
「自分は退屈している」「自分は虚無を感じている」と彼は感じるでしょうか?
私たちがそう「イメージ」することはできます。
ケルトネシプ・メルディスが真っ暗な場所にいて、永遠の虚無に怯えているところを想像することさえできます。
しかし、それを怖がっているのは誰でしょう。
ケルトネシプ・メルディス本人ではありません。
彼を想像している私たちです。
同じように、「自分が完全に消えて、何もない虚無だけが永遠に残る」と想像した時にも、その映像のどこかには、それを見ている自分が残っています。
だから怖いのです。
完全な無そのものが、「私は無になってしまった」と怖がることはできません。
だからといって、真理が「完全な無」だという話でもありません。
真理そのもの、あなたの文脈でいう悟りの道のゴールとは、道の先にある何かではなく、その道が終わることです。
「光」でもなく「虚無」でもなく真理そのものこそが「道の完結」なのです。
*
最後に、
「道の完結」自身が、
「私は完結した」と思えるでしょうか?
「私は悟った」と発言できるでしょうか?
もちろん、人は「探究が終わった」「私は悟った」と言葉にすることができます。
真理について語ることもできます。
言葉そのものが真理になるわけではありませんが、言葉によって、それまで見ていなかったものに気づくことはあります。
ただ、「私はここに到達した」「私は悟った」という認識も、心の中に現れたものです。
真理そのものは、「私は真理だ」とも「私は完結した」とも言いません。


コメント