応答
これは一つの結論にまとめるのは難しいですね。
さいごのさいごは、これだ、という何か到達領域があったという話じゃなく、
あらゆるすべての文字通り「なにもかもが」成立しない一点に収束されます。
ただ、最も決定的だったことを言うなら、私は「結論を求めていた者そのものが対象」として現れたことで、
これが「悟り」であって、これ以上努力ではどうにもできないな、というところにしばらくいました。
あるときです。それが「ふっ」と終わりました。
表現としては、「ドカン」って言いたくなるのもあるんです、確かに稲妻を浴びる感じというか、世界が爆発したような衝撃がありました、もちろん感覚的にね。だからそう言ってしまいたいけど、「ふっ」、終了。そういう感じでした。
私は世界の中にいる一人の人間として、むかし、一瞥体験をしました。
それをきっかけに人生が変わっていき、探究する流れに入り込んだわけです。
探究していた頃は、当然、身体があり、過去があり、名前があり、性格があり、その中心に「私」がいる、
その「私」が「自分」であって、私が考え、疑い、苦しみ、理解し、いつか最後の答えへ「私」が辿り着く。
そう思っていた。
でも、探究が終わる時、悟ったはずの私も、真理に到達したはずの私も「ふっ」の一瞬で全てが消滅してしまう。
そのとき、3秒間、直感的な気づきというかな、「まじかよ!!」がありました。
1秒、(あ、これ誰でも起こる可能性があるやつだわ。だって「それ」は原因と結果を超えているから。これは時間の枠組みを超えていて、場所も、主体や対象さえも超えている!)
2秒、(じゃあ一生懸命、求めて、もがいて、瞑想し、明け渡し、祈った日々はなんだったんだ。という驚愕)
3秒、あ・・。(これは直接的な理解です。これは例えですが、物語と物語をつなぐ糸がブツっと切られたようなものです。切られたらもう、もうそれは、そうなんです。)
もちろん、今言ったような表現はあとから付けた説明です。だから、また違う表現になるかもしれないけど、要は3秒目の「あ・・」という直接的な体感(心身的感覚ではないけど)が全てです。
探究の結論は探究が終わるのではなく、真理探究という夢が二度と成立しなくなるんです。
意識。真我。空。絶対。神。
これらは名前をつけた瞬間、それは知られている何かになります。最後のそれは結論として持てません。
「これが答えだ」と差し出した瞬間、それはすでに答えではなく、答えについての言葉になっています。
だから私は探求の終わりに、完全な説明を得たわけではなく、
説明を所有する者が見つからなかった。もちろんこれは非二元文脈でよくある表現だと思いますが、
ほんとは、さらにもっと言えば、世界も、時間も空間も宇宙さえ見つからない。
でもこれは、個人や世界もや時間、空間、宇宙の否定では決してありませんし、非存在だと言っているわけではないんですよ。
「それ」からしたら「それ」だけしかないから、それしかないという意味です。
他のものをまるで否定したように思うかもしれないけど、否定ではない。そこは誤解のないように。
この部分は直接性の「 」で、
主体と対象の相対的価値観で、言語化しようとするとパラドックスになる部分です。
ああ、もうこんな時間。
話が長くなっちゃいましたね。いつもか。
短く、簡潔な言い方をすれば、
「結論を必要としていた者が、最初から実体ではなかったと露呈した」
簡単に言葉にするなら、それが一番近いかもしれないですね。

