問い
よく因果応報とか、自分のしたことはいずれ自分に返ってくると言うけどどうなのでしょう。
この世では善良な人が苦しんだり、反対に他人を傷つけながら長いことうまくいっている人がいます。
カルマの法則について聞きたいです。過去の行為や経験が今の性格や反応に影響している?私たちは本当に自由に選んでいるのでしょうか。カルマを浄化してそういう流れを変えることはできますか?
それと、自由意志があるって話もあれば自由意志はないという話もありますよね。結局そのあたりどうなんでしょう。もしこの世が夢幻なら、良い行為も悪事も結局何も関係ないのでしょうか。起きることが起きるだけ?
解放を実現すると、その後の人生や運命はどうなるのか、そのあたりのことも気になります。
応答
なるほど。カルマの法則は、真理探究において確かに気になるテーマだと思うので、視点を3つに分けてお伝えしますね。
個と世界の視点から見たカルマ
まず、個人の視点から。
カルマは普通「行為」のことを指しますが、その行為によって生まれる結果や、その後の傾向まで含めて語られることもあります。
そこで、どこまでを「行為」と定義するか。
じっくり見ていくと、思考も、感情も、言葉も、呼吸も「動くもの」という意味では広い意味での「行為」です。というのも、思考も感情も言葉も呼吸もそれぞれが、次の状態や反応の仕方に影響するからです。
一つ一つは小さなことでも、次の反応や選択に影響して積み重なっていくと、だんだんはっきりとした傾向や習慣として残っていきます。
たとえば小さな種が、何年もかけて一本の大木になることがあります。
蒔いてからすぐには何も起きてないように見えても、土の中ではすでに次の動きが始まっています。そして、何を蒔くかによって育つものも違いますね。レモンの種を蒔けばレモンの木が育つし、そこに桃が実ることはないわけです。
たださらに言うと、種蒔きは外界の世界だけじゃなく、行為した者の「内側」にも、その行為の傾向や影響が残っていきます。
たとえば、なぜかいつも同じ反応をしてしまうとか、似た状況や、似た関係を繰り返してしまう人の話って聞いたことありますよね。
そういう場合、過去の経験や行為が目に見えないその人の癖として残っていて、それが次の思考や行動にも影響し、また似た反応や行動を生み同じような傾向として残っていくわけです。
つまり、個人は毎回まっさらな状態で選んでいるように感じていても、実際にはその選択が出てくるまでに、いろんなものが積み重なっているわけです。
そこでそういう流れを変えたい場合「今起きている反応そのものに気づくこと」が重要な意味になってきます。あなたのいう「浄化」の話で言うと、心の動き、想念の動きに丁寧に気づくことの本質は、
自分の性格を知って「良いところ、悪いところ」と分類したり、抵抗したり、変えようとしたり、憎んだり、消そうとしたり、落ち込むことじゃなくて「自動的に動いていた傾向との同一化に気づいていくこと」です。
普通は、不安が起きて、不安のまま反応して、これはもうこうなんだと認めてから、「なんで自分はこうなんだろう?どう対処しよう?」と、完全に「これは確固たる間違いない事実である」という前提で、話を展開していくじゃないですか。
しかし、そうやって連鎖していくことは止めようとしなくて良いんですが、(連鎖するときは、連鎖するものなので)たとえば、不安や怒りが起きた時、そのまま強く反応していたとしても、
「これは自分『そのもの』ではなくて、あくまで一つの反応なんだ」と見えてくると、そこに少し余裕というか、緩みというか、余白的なものが生まれるんです。
モヤモヤをただ苦しいと眺めているだけでは、同じ反応をさらに別の角度から見続けるループになりやすいけど「自分は、何と同一化しているのか」が見抜かれると、過去から当たり前のように続いていた流れに、少し別の流れが入るんです。
そのため、さまざまな修練やアプローチやワークには、根深い習慣や癖を和らげるという役割があります。結局は人生体験もそうですが。
自分が一体何に反応し何を握り締め、何と同一化しているのかと向き合う機会になります。
それがいわゆる浄化です。
全体意識から見たカルマ
ここから視点を少し広げてみます。
「個人が蒔いた種だけの問題で、その人の人生すべてが出来ているのか?」という点です。
そんなわけないですよね。
なぜなら、自分が蒔いた種だけの話じゃなく、他の個人が蒔いた種や、社会や時代が蒔いた種、先祖が蒔いた種、受け継いだ種、さらにもっと前から続いてきた色々なものの影響を受けながら個人も人生も成り立っています。
その人だけの原因と結果としてすべての責任をその人に被らせるには、やはり無理というか限界があると思いませんか?
さて、ここで全体意識の視点から見ると、そもそも個人が意識を持っているという見方自体が幻想でありマーヤです。
むしろ意識の中に、個人も世界も含めたあらゆるものが見かけ上、現れている。
なので「良い種を蒔けば自分にも良い影響があると分かっているのに、なぜ自分は良い種だけを蒔き続けられないのか」という疑問にもつながってきます。
なぜ人間は頭では正しいとわかっているのに、パーフェクトに選び続けることができないのか?
この答えは、個人だけを見ていても難しいですが、全体意識の視点からするといろんな要素が別々に存在して影響し合って、意識が世界全体として一つの運動を起こしている、と見ることができます。
だから、一つの出来事をとって「これは過去に良いことをした報い」「悪いことをした罰」と判断できないわけです。カルマを単純な賞罰装置として見ることには限界があります。
実際、あなたがいうように善良な人が長く苦しんだり、逆に人を傷つける人が長くうまくいっているように見えることもあります。
一人の行為と結果だけを一直線につなげれば、矛盾しているように見えますが、実際には無数の流れが重なって壮大な時間軸で、一つの世界、宇宙が動いています。
このあたりに来ると「個人が自由に選んでいる」という見方と「すべては全体の流れとして起きている」という見方が両方出てきて、一見矛盾していますが、これは見ている位置が違うだけです。
個人として生きているところでは、私たちは実際に迷い、考え、何かを選びながら生きているし、全体意識から見ると、そういう迷いや選択も決断も含めて、全部が世界自身の運動として起きています。
つまり個人の意志も、世界の運動と切り離されていません。
「感謝」という言葉の意味深さが出てくるのもこの辺りからです。
なぜなら、物事の結果とはその構造上、個人の力だけではどうしようもできないから。
「明け渡し」という言葉が個の未知に対する恐れを溶かし、世界や宇宙に対する信頼を育むというのも、こういった構図からです。
自分が何もかもを支え、決め、動かしているという力みがほどけていく。そもそも個人が世界全体を背負っていたわけではありません。全体は、全体自身を世話しているだけです。
とはいえ、個人の意志力や想念のパワーにも、偉大な力があります。
強い想いは山をも動かす、とか言いますよね。私はこれは大袈裟な話じゃないと思ってます。
ただし、鳥は空を飛べても海を泳げないし、魚は海を泳げても空は飛べないという面もあります。全体意識から見れば、その個人が種を蒔く動きや、その行為さえもまた世界の流れの中で起きている。
しかし、ずっと昔の魚からすれば、陸を歩くなんて想像もできなかった。それでも生命は形を変えながら、実際に陸へ上がってきた。
何が言いたいかというと、結局、この二つは同時に成り立ちます。個人には限界がある。でも、その限界が永遠に固定されているわけでもない。
だからこそ、強く想い続けることで願望が現実を動かすこともあるし、悟りや目覚めや覚醒と呼ばれている事象もまた、固定された個人の限界を超える変化として成立するんです。
また、良い種を蒔こうと思っても、一人ではどうしても続かない時があります。そんな時、同じ方向を向いた同志と力を合わせると、一人では動かなかったことが動き出したり、思っていた以上に遠くまで進めたりすることがあります。
それから、結果を全部コントロールすることはできなくても、自分にとって何を咲かせたいのか、どんな方向へ進みたいのかと、己と丁寧に向き合い続ける自己愛も大切になってきます。
真我そのもの、絶対意識から見たカルマ
ここまでの話が、個と世界、そして全体意識から見たカルマの話でした。
では、真我そのもの、絶対意識から見たらどうなるのでしょう?最後にここも載せときましょう。
ここでまた話が大きく変わります。
たとえば、ここに一本のDVDがあるとします。
そのDVDには、一人の主人公の人生が収録されています。そして、そのDVDを再生するレコーダーがあります。
DVDを入れると映像が始まります。主人公が考え、動き、行為をします。世界と関わって様々なドラマが繰り広げられていきます。
あなたの質問の「解放を実現すると、その後の人生や運命はどうなるのか?」に答えると、実現によって明らかになるのは、「自分がDVDの中に閉じ込められた主人公ではなかった」ということです。
DVDの映像に今後何が起きるのか? これを気にするのはあくまで主人公ですね。
その後の映像の展開は、煙に巻くようで申し訳ないんですが一律に決まっていないんです。十人十色。
人生が大きく変化する人もいれば、周りから見ればそれまでと変わらず続いていく人もいる。映像について良くなった、悪くなったと判断することもまたDVD側で起きる話です。
ただし、真我の実現によって、行為者、体験者としての主体は成立しなくなります。行為や人生の動きそのものが止まるという話ではなく、それを「私がしている」と所有する行為者としての自己認識が消える、という意味です。
なので、それまで蓄積されてきたカルマは焼かれるとされますが、すでに結果を生み始め、現在の身体と人生として動き始めているカルマに関しては、その流れを終えるまで続いていきます。
DVDで言えば、すでに再生が始まっている一本には、まだ残りがあります。実現したからといって、その場で映像そのものが消えるわけではないんです。
レコーダー本体を真我にたとえると、レコーダーがなければそもそもDVDは再生されませんよね。
ただ、DVDの中で主人公に何が起きても、映像の中がどんなに揺れたり燃えたり濡れたり吹雪いても、その出来事がレコーダー本体を傷つけたり、汚したりすることはあり得ませんね。
主人公が、どんな種を選んで蒔いたとしても、それはDVDの映像の中で起きています。
真我と世界の関係も、これとよく似ています。世界があるなら、その世界が現れる基盤として真我があるからです。
ただ、真我そのものが世界の中へ入って、主人公としてカルマを背負っているわけじゃない。だから、真我そのものから「世界とは何か」「カルマとは何か」と問おうとすると、そもそもその定義が成立しなくなります。知る、知らないということ自体、DVDが再生され、世界が現れたところで初めて出てくる話だからです。
とはいえ、世界という物語が起きれば、その中では行為も結果も起きます。
世界が夢や幻のようなものだという話は、「幻想だから何をしても同じ」という意味ではありませんよ。そこには、世界なりのルールや道理や法則があり、行為には行為なりの結果が現れます。
幻想だとはいえ、その幻想の中で法を破って刑務所へ行けば、その幻想の中で辛さや苦しさを経験することになるわけです。
つまり、DVDの中で主人公が何をするかによって、その後の映像の展開に影響が現れます。その中では原因と結果と呼べるものが成立します。
一方で、その因果が、カルマが、「レコーダー本体」に刻み込まれることはありません。因果やカルマがどれだけ続いたとしても、それは映像として起きることで、本体は変わらず本体のままです。
この視点まで来ると、さっきまで話していた「良い種を蒔こう」という話と矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、これは見ている位置が変わっているためです。
個と世界の視点では、自分と世界にとって良い種を蒔くことは、そりゃあ有益です。
全体意識から見ると、種を蒔くこと自体も選択も、世界全体の流れの中で起きています。
そして真我そのものは、時間や場所の領域を超えています。不動であり、不滅であり、あらゆる色に染まらない。そこでは、行為者としての主体も、「カルマがある」「カルマがない」という定義も成立しません。
そのため、同じカルマという言葉でも、どの視点から、どの位置で見ているかで話が大きく変わるのです。真理の話で一見矛盾することが多いのは、こういう視点の違いを一つの平面に並べてしまうからです。


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