問い
探究の中で得た理解や、大切な気づきが以前ほど思い出せなくなってきました。
前は明確に分かっていたことまで、言葉にしようとすると出てきません。
これは探究が後退しているのでしょうか?
それとも、知識や記憶への執着が落ちているのでしょうか?
応答
それは必ずしも後退じゃありません。
探究の過程では、得た理解や気づきを記憶として残そうとする働きがありますね。
「大切なことが分かった」とか、「進歩した、だからこの理解は失いたくない」と、こう思うのは自然なことです。
だから、以前ほど思い出せなくなったとき、不安になるのも無理はありませんよ。
ただ、そこで一つ見てほしいことがあります。
思い出せないこと、イコール理解そのものを失ったことなのか、です。
なぜなら理解は、必ずしも記憶の中だけに残るものではないから。
以前は何度も何度も確認し、思考や言葉にしていたことが、いつの間にかものの見方や生き方の中へ溶け込んでいることがあります。
たとえば、昔は何度も思い出さなければできなかった作業が、今では考えなくても自然にできることがありますよね。言葉としては薄れていても、それは失われたのではなく、すでにその人の中で働いています。
それと同じように、以前のように説明できなくても、その理解はちゃんと働き続けていることがあります。
以前は、「自分が到達した理解や気づき」として握っていたものが、だんだん誰のものでもない理解になっていくこともあります。
そのとき薄れたのは、記憶そのものというより、記憶につけられていた「自分の」というラベルです。
だから、思い出せないことをすぐに喪失や後退と考えなくてもいいですよ。
もちろん、曖昧さや混乱の状態をなんでもかんでも深まったと取り違える必要もないけど。
本当に理解が曖昧になっている場合もありますしね。大切なポイントは言葉を思い出せるかどうかだけで判断しなくて大丈夫ってことです。
気づきを覚えていることと、その気づきが生き方の中で働いていることは違います。
そして、最終的に残るのは、真理について多くを記憶している者ではありません。
「自分が知った」という所有が静かになり、透明になっていく。
そのとき、理解だけが自然に働いています。


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