「あなたはすでにそれだ」
探究をしていた頃、この言葉に出会うたびに私は少し安心した。
探していたものは、ここにある。もう、遠くまで行かなくていいし特別な何かにならなくてもいい。これでようやく長い旅を終えられるような気がした。
けど、そのすぐ近くにはいつも別の言葉があった。
「真剣に探究しなさい」
「何度でも自分に問いなさい」
「祈り、瞑想し、自己を明け渡しなさい」
「求めよ、さらば与えられん」
私は、ずいぶんとイライラした。どっちなんだ、と。
すでにそれなら、どうして探さなければならない?何もする必要がないのなら、なぜ聖者たちは修行の方法を残したのか?はじめからゴールにいるのなら、なぜこれほど多くの人が何年も探し続けているのか。
「努力を落としなさい」と言われた直後に、「真剣に求めなさい」と言われる。
しかも、ときには同じ人物が、両方を語っていたりする。
当時、私はしびれを切らしながら、二つの声の間に立っていた。
二つの声
一つの声は言った。
「あなたはすでにそれだ」
もう一つの声は言った。
「目を覚ましなさい」
それは対立しているように思えた。
「すでに目覚めている」
「なら、なぜ苦しんでいる?」
「何もする必要はない」
「じゃあその言葉を握っているのは誰だ?」
二つの声は、互いを打ち消しているように聞こえた。どちらか一方が正しく、もう一方が間違っている。私はそう思っていた。
だから、正しい答えを決めようとした。
努力が正しいのか。それか、努力しないことが正しいのか。さらに探究するべきなのか。それか、探究を捨ててすべてを落とすべきなのか。
しかし、どちらに決めても、あとに何かが必ず残った。
努力を選べば、永遠に到達しない者が残る。何もしないことを選べば、「何もしなくていい」と理解した者が残る。
私は、言葉を手に入れたことで、むしろ前よりも動かなくなった。
探究したからこそ、探究が落ちる
苦行の果てに、苦行では届かないと知る。
問い続けた果てに、問いを発していた者そのものが見つからなくなる。探し続けた果てに探していたものが一度も離れていなかったと知る。
探究が真理を作り出すわけではない。
でも、だからといって、探究が無意味だったわけでもない。つまり、探究したからこそ探究が落ちる。努力したからこそ、努力では届かないことが言葉ではなく身に染みる。
最初からそれだった。
しかし、「最初からそれだ」という言葉を聞いただけでは、それを直接知ったことにはならない。この矛盾は、頭で整理しようとすると、いつまでも矛盾のままだった。
あるとき、私は問いを少し変えた。
どちらの言葉が正しいのかではなく、一体その言葉は誰に向けられているのだろうか。
「あなた」という言葉の二つの宛先
「あなたはすでにそれだ」
この言葉の「あなた」は、名前を持った個人の人格だけを指しているのだろうか。過去を握り、未来を恐れ評価されることを望み自分の物語を守ろうとしている私。
その私に向かって、
「その考え方も、執着も、恐怖も、何も見なくていい。あなたはそのままで完成している」と言っているのだろうか。
いや、おそらくそうではない。
この言葉はその人格さえ現れている気づきに向けられている。思考が現れたことを知っている。感情が動いたことを知っている。身体の感覚を知っている。その気づきに対して言っている。
「私はこういう人間だ」という自己像さえ、現れたものとして、気づきに知られている。
その気づきは、新しく手に入れるものでも、何かの修行によって作られるものでもなかった。
すでに在る。だから、その場所を指すなら、
あなたはすでにそれだ。何も加える必要はない。最初から失われていない。という言葉になる。
だが、その言葉を聞いている個人の私は、すぐにそれを所有しようとする。
「なるほど。私はすでにそれなのか」
「では、もうこのまま何もしなくていい」
「探究してもしなくても同じだ」
「すべては起きているだけ。はい、終わり」
そう言って、昨日まで握っていた自己像の上に、新しい言葉を載せる。
「私はいない」と知っている私。
「エゴは存在しない」と理解した私。
「すべては完璧だ」と言える私。
私が消えたのではない。ただ、以前よりも見つけにくい服へこっそり着替えただけだった。
言葉を握っているもの
直接理解は、言葉を記憶することとは少し違う。
たとえば、「私はいない」という考えが現れたとする。その考えもまた、対象として知られているものだ。
では、それを正しい答えとして握っているものは何なのだろう。
「すべては起きているだけだ」
という理解が現れる。その理解を所有し「自分はもう分かった」と安心しているものは何なのだろう。
「何もする必要はない」という言葉に触れたとき硬直した身体が少し緩むことは確かにある。だが、その言葉を使って、もう見たくないものから目をそらそうとすることもある。
同じ言葉でも、そこに起きていることは同じではない。言葉が真実かどうかだけではなく、
その言葉を、今、一体誰が使っているのだろうか。
もう一つの声
だから、もう一つの声は言う。
「同一化を見なさい」
「いつもあたりまえに握っているものを見なさい」
「誰が傷つき、誰が恐れ、誰が目覚めようとしているのか、問いなさい」
この声は、真我を、新しく作れと言っているのではない。すでに在るものを覆っている錯覚を、錯覚のまま見過ごさないように言っている。
これは思考を止めろと言っているわけでも感情を無視しろと言っているのでもない。
ただ、それを自分そのものだと思っていることに気づく。そのために瞑想や祈りや自己探究のワークが必要になることもある。
たしかに何度も同じ場所へ戻ることもある。分かったと思った翌日に、また同じ執着のパターンへ巻き込まれることもある。
それでも見る。それは、探究によって真我になるためではない。
真我になろうとしていた者がどこにも独立して存在していなかったと、直接知るために。
二つの声は、争っていなかった
もう一度、二つの声を聞いてみる。
「あなたはすでにそれだ」
「探究しなさい」
以前の私には、正反対の命令に聞こえていた。だが、一つ目の声は、最初から動いていないものを指していた。二つ目の声は、そこへ向かって走り続けている者に向けられていた。
真我について語るなら、
道はない。距離もない。到達もない。
個人の錯覚について語るなら、その錯覚は丁寧に見られなければならない。
言葉の宛先が違っていたんだ。
ただ、それだけだった。
すでにそれだった
「あなたはすでにそれだ」
その言葉は、個人の私へ勲章を与えるためのものではなかった。探究を途中でやめるための許可証でもなかった。
探究の終わりに、立派な何者かへ完成するわけではないことを示していた。探していたものは、探す以前から在った。
だが、その言葉を聞いて安心した私は、それをまだ「一つの答え」として握っていた。
だから問いは続いた。
誰が、この言葉に安心したのか。誰が、何もしなくていいと言っているのか。誰が、すでにそれだと知ったのか。
問い続け、確かめ続けるうちに、問いに答える者が少しずつ見えなくなっていく。
そして、探究そのものが落ちたとき。
新しく何かが現れるわけではない。最初から語りかけていた、一つ目の声だけが残る。
あなたはすでにそれだ。
今度は、その言葉を所有する者がいない。


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