「あなたはすでにそれだ」エゴにとって勘違いしやすい言葉

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「あなたはすでにそれだ」と「探究しなさい」は、なぜ同時に語られるのか

これまでこの世界には、たくさんの霊性教師、ガイド、グル、聖者たちが現れてきました。しかし、彼ら彼女らの教えには、矛盾しているように見える表現が多くあります。

あなたも、アドヴァイタ、禅、非二元などの文脈で、次のような言葉に出会ったことがあるかもしれません。

  • あなたはすでにそれとしてある。
  • 探しているものが、探している者だ。
  • 探す必要はない。最初からゴールにいる。
  • 努力や探究を落としなさい。

しかし一方で、こうも言われる。

  • 悟りには段階がある。(小悟、中悟、大悟など)
  • だんだんと成熟し、理解が深まっていく。
  • 何度も何度も、それに会いに行かなくてはならない。
  • 求めよ、さらば与えられん。 
  • 修練やワーク(瞑想、ヨガ、祈り、奉仕など)をしなさい。

など、ときに同じ人物が両方の言い回しを語ることすらあります。

こういう矛盾について記事を書こうと思ったのは、私自身、探究時代にずいぶんこれらに困惑したから。

「すでにそれなら、なぜ修行が必要なのか」
「 努力がいらないなら、なぜ聖者たちは修行や探究の方法を語るのか」
「何もする必要がないなら、なぜ、いにしえから道や思想や教えがこんなにもあるのか」
「最初からゴールなら、皆なぜ苦しみ、混乱の中で、無常を生きる必要があるのか」このように私は思いました。

さらに極端な例をあげると、「すでにそれなんだから、探したり、求めれば、むしろ真理から遠ざかる」と、語られることもあります。

ここで、例を挙げましょう。例えばブッダ。彼は、極端な苦行の果てに、苦行で真理に至るんじゃない、と見抜いたとされています。苦行そのものが悟りそのものだったわけじゃない。けど、仏陀は実際にその道を通った。これは、苦行の限界まで行ったからこそ、苦行では届かないと見えた。苦行を通ったからこそ、苦行が落ちた、という見方をよくされます。

つまり、探究したからこそ、探究が落ちた。
努力したからこそ、努力では届かないと見えた。

禅でも、すでに仏である。本来、欠けていない。 最初からそれである。そのような直接的な言葉が語られますが、禅の人たちは修行し、問い続け、師に参じ、自己を徹底的に削っていった。すでにそれだ、と言いながら、道の過程では修行しまくっている。

ノンデュアリティ界隈でも探究のエネルギーが消えたとき、はじめてそれが明らかになる。
探している者がいなくなったとき、探していた対象など最初からなかったと分かると語るティーチャーたちも、多くの場合、長いあいだ苦しみ、問い、探し、挫折し、人生かけて探究しまくってきた人たちが多い。

このあたりの矛盾は、一見すると頭だけでは本当に分かりにくいと思いますが、過去の自分に向けて書くつもりで、重要なことをここに残しておきます。 

それは、

まず、第一に霊性教師たちの言葉には、真我に向けて語られている言葉と、エゴ(個人)に向けて語られている言葉があるということ。

これを覚えておいてください。つまり、同じ人物や相手に伝えているように聞こえても、実は言葉が指している場所がその瞬間ごとに違うということが往々にしてあります。

「あなたはすでにそれだ」をエゴが勘違いするとき

こういった矛盾の表現によって、受け手が勘違いするというより、そういった記録や文脈を、第三者誤って受け取ったり、解釈をしてしまう場合が結構あります。とくにスピリチュアルや精神世界を学ぶために過去の文献や、聖者の遺した言葉から真理を探究しようとする人も多いから。

そして、それらは大きく分ければ二つの種類がある。一つは修行や修練、自己探究の方法や、それらを行うことの大切さを説かれたもの。そして、もう一つが「あなたはすでにそれだ」「 何もする必要はない」といった文脈。
あるいは、どっちもミックスされているバージョン。

そして、探究者は、その「あなたはすでにそれだ」という言葉を、エゴとしての自分に向けられた言葉だと受け取り、「あ、自分はもうすでに完璧だし、すでにゴールなんだ」そう思ってしまう場合があります。これが極端に向かうとエゴとしての自分が完璧なんだと思い込み、エゴとの同一化を逆に強め、修練やワークの道を否定して、捨ててしまいます。こうならぬよう我々は注意しないといけません。

本来、悟りの道とは、自他含めたエゴや世界の構造の限界点にぶち当たり、看破し、そのとき初めてあらゆるものから自由になりたい、超越したい、という聖なる衝動が起こるものです。言い換えれば、運命によって呼ばれるような、悟りの道自体から呼ばれるようなタイプのものです。

しかし、エゴが悟りたいと思う動機の中には、往々にして悟ったエゴとしての自己価値を高めたい、幸福になりたい、特別になりたい、というパターンがあります。その場合、エゴとしてはできるだけ自分を保持したままスムーズに完成させたいわけです。あるいは、エゴを輝かせるための実現を想定しています。なので、「あなたはすでにそれだ」というような指し示しに触れると、

「え、それならもう今のままで良くない?」

「なんで理解を深める必要があるの?」

「修行?してもしなくても同じじゃない?」

「ただ起きてるだけなんでしょ。はい、じゃあもうゴールってことで」

こうして、エゴは、わかったエゴ、理解したエゴとして、なんとなくの雰囲気で自己完結、自己満足してしまう。

こうなると、真理探究のプロセスがつまずいて停滞してしまいます。もちろん、エゴのそういった動向は、この道を進む上での通過儀礼でもありますが、この場合の懸念点は、本人がつまずいていることに気づいていない。だから、停滞が長い間、沈澱する。つまり、せっかく真理探究したのに大変もったいない!というわけです。

真理探究における“ 直接理解”とは、一般社会でいう「理解した」「わかった」という知的な理解、頭の理解、記憶による理解とはベクトルの違う理解なのです。物知り、知識人に至る道ではありません。「私は知っている者である」という主体的概念の脱落です。 

なので、「私はいない」と言いながら、その言葉を握っている何かがいたり、「エゴはいない」と言いながら、エゴはいないと知ったエゴがいたり、「すべては起きているだけだ」と言いながら、その理解を所有している者がいたり、「すべては完璧だと、掴むことで、完璧の中で不完璧を作っておきながら、それを完璧だと欺瞞的に思い込む」 

といった非常に微細な形をとる、狡猾なエゴの生き残り作戦を、私たちは注意深く観ていく必要があります。

だからこそ、ここで大切なのは、

「あなたはすでにそれだ」という言葉が、誰に向けて言われているのか、をちゃんと知っておくということです。

この言葉は、意識が意識に対して言っているのです。個人としてのあなたに向けられたエゴ言葉ではありません。

身体を持ち、思考を持ち、感情を持ち、記憶を持ち、過去を持ち、未来を恐れ、自己像を握っている個人に向かって、

「あなたはそのままで完璧。完成している。だから何もしなくていいよ」と言っているわけではないんです。残念ながら。

そうではなく、

あなたの本質である「真我は、すでにそれであり、パーフェクトであり、ゴールである」という指し示しです。言葉が向いている先が違うのです。

真我に向かって言えば、あなたはすでにそれだ。完全で完璧。何もする必要はない。探す必要はない。探したら離れる。最初から失われていない。

これはまさに真実です。

しかし、個人のあなた(エゴ)に向かって言えば、

錯覚を見なさい。同一化を見なさい。握っているものを見なさい。
思考、感情、身体、記憶、自己像を自分だと思っていることに気づきなさい。場合によっては修練やワークをすることが役に立つ。

これもまさに実際的な意味でも大切な真実です。

だから、霊性教師の言葉が矛盾して聞こえたときは、ある言葉は真我に向けて放たれている。
ある言葉は個人の錯覚に向けて放たれている。という視点を使ってください。

真我に向けられた言葉を、エゴが自分のものとして受け取る。すると、真理の言葉が、エゴの免罪符になってしまう場合がある。そうならないようにご注意ください。

頓悟と漸悟

また、面白いことに、仏教には、頓悟(とんご)と漸悟(ぜんご)という言葉があります。

頓悟(とんご)とは、一気に悟ること。
漸悟(ぜんご)とは、段階的に深まっていくこと。

先ほど述べたような、エゴの勘違いや混乱による落とし穴を避けるため、通常は段階の道を示すことが多いです。ひとつずつエゴとの同一化や幻想を現実だと誤認している箇所を見ていく。段階的に、一個一個ていねいにほどいていく。

しかし、ある程度そういったプロセスが成熟した者においては、直接的な言葉が効果的に働くこともあります。

努力を捨てなさい。
あなたは最初から完璧である。
あなたは何もする必要はない。
あなたはすでにそれだ。

このような、頓悟(とんご)の道です。

一足飛びに時空を超えるようなアプローチです。なぜなら、同一化がだんだん落ちてくると、微細なエゴの残党たちは、修行者や探究者としての私、たくさん努力をしてきた私、直接体験や理解が深まった私、として生き残ろうとするからです。(これらは色んな意味で無害に見えやすいのですが、水面下でアイデンティティ固定し、なかなか厄介です)

だからこそ、ここで頓悟(とんご)が有効なのです。

「あなたはすでにそれである。あるいは、すべて捨てなさいという全否定」  

つまり頓悟(とんご)とはRPGでいうところの終盤、ラスボス間際に重要になるアプローチであって、 

旅のはじめや、中盤では漸悟(ぜんご)を潜在意識に浸透させ取り入れることが大切であり安全でもある。ここで、無闇な頓悟(とんご)的アプローチに絞ると、進歩どころか、混乱や、停滞や、暴走や、希死念慮の危険さえはらんでいるということをお伝えしたい。 

まとめ

真理実現とは、エゴがエゴを保って、進化するお話ではない。

言いかえれば、悟りとは、エゴが悟るのではありません。

エゴや世界との同一化が消える。

あるいは、エゴはずっと実体を持たなかったと、光によって暴かれる。

だからこそ「あなたはすでにそれだ」という言葉は、エゴに向けられた言葉でも、エゴを強化するための言葉ではない。

真我であるあなたに向けられた言葉であり、むしろ、エゴが成り立たなくなるための言葉です。


また、ブッダの「苦行は必要なかった」的な発言の私なりの解釈は、

“ 作為的”な苦行は意味ない、しかし、ブッダは運命によって、努力が起きた、修行が起きた、という意味合い。これは、大悟に至ったら、行為者や物語や因果が消えてしまいます。なので、苦行は、私が行ったのではなく、起きたのだ、そして、同時に探究も苦行も達成も、何も起きていなかったことが明らかになったと言いたいわけです。 

これははじめは漸悟(ぜんご)的にプロセスが進行し、最終的に頓悟(とんご)的、即時的なアプローチになっていく理由の解明でもあります。つまり、だんだん、「行為者のエゴ」自体が落ちていくからです。

というわけで、聖なる言葉というのが、往々にして矛盾するのはなぜか?というと、エゴに伝えているか、成熟したエゴに伝えているか、真理そのものであるあなたに伝えているか、によって、まったく状況が違うからという話でした。

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