悟ったはずなのに、なぜまた探すのか

「メガネがない」

あなたは慌てて、机の引き出しを開ける。

乱雑に積まれた雑誌をどかし、次に鞄の中を探る。そういえばと、昨日着ていた上着のポケットにも手を入れる。

「ない!」

メガネがないとメガネを探すことさえ難しい。ぼやけた視界の中で、部屋の形が少しずつ不機嫌に歪んでいく。

そこへ誰かがやってきてあなたの様子をしばらく見たあと、言う。

「頭」

手を伸ばす。メガネは、頭の上にかかっていた。

「あはっ、マジですか」

あまりにも近すぎて見えなかった。あなたは大声で笑いメガネをかける。

世界が急に鮮明になる。もう探す必要はない。はじめから失ってなどいなかったのだから。

しばらくしてあなたは目をこすりながら何気なくメガネを頭の上へ戻す。そして、すぐにそのことを忘れる。

手はまた机の引き出しへ伸びはじめる。雑誌をどかす。

「ない!」

さっきよりも強い声だった。

一瞬で見えるものと、ゆっくりほどけるもの

メガネが頭に「ある」と気づくのは一瞬だった。

それまでどれほど長く探していても、気づく瞬間には時間がかからない。

あった。本当に、それだけ。

仏教では、このような直接的な飛躍を、「頓悟(とんご)」と呼ぶことがある。探していたものが見つかるというより探している「私」が一瞬見つからなくなり、最初から距離など存在していなかったことが露出する。

真我は遠くにある対象ではなく、探す以前から、すでにここにあった。

ただ、長いあいだ探し続けた手はすぐにその動きをやめない。頭ではなく引き出しへ伸び、次に鞄を開ける。ふたたび部屋の中を歩き回る。

探す必要があるからというより、探すという動きが身体と心に深く染み込んでいるためだ。

一度メガネが頭にあると気づいても、ふとした拍子にまた忘れる。

そして、探してる途中でハッとなる。ああ、そうだった。もう探さなくてよかったんだ。

この反復の中で、長いあいだ染み込んでいた「探す」という癖が、少しずつ力を失っていく。

この時間をここでは漸悟(ぜんご)という言い方で呼ぶこともできる。

頓悟と漸悟は、反対の道ではない。

見えることには時間がかからない。見えたあと、古い動きがほどけていくまでに、時間がかかる。

戻ったのは誰か

ある瞬間すべてが静まる。

探す者がどこにも見つからない。世界と自分を隔てていた境界もない。

何かを「理解した」というより、余計なものが一瞬落ちる。

ああ。最初から、これだった。

ところが次の瞬間には身体の痛みが現れ、嫌な記憶が浮かび、誰かの言葉に傷つき未来への不安が脳裏をよぎる。

「やばいどうしよう、私はどうなってしまうんだろう」

その思考を自分そのものだと信じた瞬間、世界は再びこちらとあちらに分かれる。

私はここ。幸福は向こう。私は無価値で欠けている。この穴を埋める何かを探さなければならない!そして、また引き出しを開け、鞄の中身をまさぐる。

人はそれを「悟ったはずなのに、元に戻った」と呼ぶ。

けど、何が戻ったんだろう。

痛みや記憶が再び現れたことなのか。それともそれらを拾い集めて「私」と呼ぶ中心が立ち上がったことなのか。

あの瞬間、見つからなくなったのは真我を知る個人ではなかった。「私が見ている」「私が探している」という中心そのものだった。

そして、その中心が再び立ち上がり、記憶を拾い集めて「私は元に戻った」と語り始める。

始まっていないものは終われない

幻想を完全に終わらせようとすると、奇妙なことが起きる。

幻想を終わらせようとする「私」が、どこからともなく現れる。

今度こそエゴを消そう。次はもう二度と同一化しないようにしよう。完全に目覚めた状態をこのまま維持しよう。

そうして、メラメラと新しい探究が始まる。今度は「探さないこと」を探し始める。

幻想は蜃気楼のようなものだ。最初から始まっていないものは、終われない。

終わるのは蜃気楼そのものではなく、そこに本物の水があると信じ、走り続けることだ。

幻想が二度と現れなくなることじゃない。

幻想を絶対的な現実だと掴んでいた手が、少しずつ緩んでいくこと。

メガネは、まだ頭に

あなたの手が、また机の引き出しへ伸びる。

その途中で、ふと止まる。

いま、私は何を探そうとしていたのだろう。何が欠けていると思ったのだろう。

誰が、もう一度完成しようとしていたのだろう。

手を頭へ伸ばす。メガネはまだそこにある。一度も離れていなかった。

「私は真我から離れた」

では、そう言っているこの私は、いったい誰なんだろう。

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この記事を書いた人

パラトゥリクス管理人。

言葉になったものを置いています。