問い
一瞥体験や大きな気づきのあと、以前より生きやすくなると思っていました。
ところが実際には、仕事や人間関係が崩れ、目標も失い、何を支えに生きればいいのか分からなくなりました。
今は以前より静かですが、悟ったわけでもなく、ただ何も求められなくなったようにも感じます。
これは探究が間違った方向へ進んだのでしょうか。
応答
一瞥体験のあとに、人生が整うかどうかは残念ながら決まっていません。
むしろ一瞥とは、探究の進み具合や人生の成否を超えて、すでに完成されている領域を垣間見ること。
見るというより、見てしまった、味わってしまった、といった表現の方が近いかもしれません。
それを味わうと、確かに、それまで当たり前のように自分を支えていた価値観が揺らぐことはあります。
一瞥はそれまで生きていた世界そのものっていうより、世界を支えていた前提に亀裂を入れることがあるからです。
内側の信念だけではなく、仕事や人間関係、生活の目標にまで影響が現れることもあります。
たとえば、普通に楽しみ、夢中になれていたことに以前のような熱が起きなくなったり、
ものすごく欲しかったものが、どうしても手に入れなければならないものに見えなくなったり、
当たり前に頑張れたことに、頑張る理由を見出せなくなったり。
そうした時期を、一瞥後の整理期間や調整期間のように感じることもあるでしょう。
ただ、一瞥によって人生が崩れたからといって、探究が間違っていたとは限りませんし、
人生が崩れたことが、一瞥の正しさや悟りの証明になるわけでもありません。
一瞥によって理解が先に起きても、長い時間をかけて作られてきた個人の反応や生活が、
すぐにその理解と一つになるわけではないからです。
理解は起きていても、身体や心には以前の反応が残っています。
だから、古い目標が力を失っても、焦って新しい目標を作る必要はありません。
それから、一瞥体験をすると、もう一度あの一瞥の状態を取り戻そうとする動きも出てくるものです。
「一瞥は本物だったのか」「後退していないか」
「いつこの期間は終わるのか」
このように、現在地を確定して安心しようとする気持ちが、新たな苦しみになることも珍しくありません。
だから今、あなたが燃えるような探究の状態じゃなく、
以前より静かで淡々としているのなら、まず、その静けさを不足や不十分として扱わなくてもいいですよ。
特別な体験を再現しようとせず、何かを達成しようともせず、ただ「存在性」や「私は在る」という、どんな時にも失われていない事実へ戻る。そこでたびたび、落ち着く。
そして生活に必要なことは最低限行いながら、崩れた部分は必要なら少しずつ現実的に整えていく。
あと、今起きていることを、悟りや失敗の物語としてあえて確定しない方がいいと思います。
人生が崩れたことを、イコール悟りの証明にすると、今度は人生が整うことを、どこかで間違いのように感じてしまうかもしれませんから。
古い自分の物語が力を失ったあと、何者になるかを急がず、定義せずにいられるか。
今は、そこにいるのかもしれませんね。

