ある天界の少しだけ高い丘に、いつも虹がかかっていました。
その虹はつねにうるおいがあり、みずみずしいと評判でした。
天界に住む者たちは、虹の下で話をしたり虹の端から端までくまなく探検していました。虹から雫がポツンと落ちると、それを合図に誰からともなくダンスらしきものが始まりました。
ある日、虹のまわりに霧が立ち始めました。霧そのものは天界ではそれほど問題ではありません。
ただその霧は「シューシュー」とやたらと大きな音を立てていました。
これが「スワースワー」や「ホワーホワー」だったなら誰も騒音だと気にしなかったかもしれません。しかし、シューシューは天界人の繊細な耳には少し気になります。
そこで会議が開かれました。
天界では、はしゃぎ声がどれだけ大きくても騒音ということにはなりませんでした。ただ何の音かわからない音が聞こえたときはその原因を調べる決まりになっていました。
記録係は天界で起きたことが記録されているアカシックレコード1を開きました。
霧の原因はすぐに見つかりました。それは雨雲でした。雨雲は風に運ばれ、その風は海の上で生まれ、海は月に引かれていました。
月は、36天里(とても長い単位)離れた黄土色の惑星と、互いの位置をわずかに支え合っていました。
その惑星でほんの軽い地震が起き、砂埃が渦を巻いたため、月はいつもの場所から髪の毛一本分ほどずれていました。
では、なぜ黄土色の惑星で軽い地震が起きたのでしょうか。
さらに原因を辿ると新たに判明したことがあります。
月の近くにある地球という星の、アイスランドの南に浮かぶヘイマエイ島で、一匹の子羊が崖の手前で足を滑らせていたのです。
子羊はなぜ足を滑らせたのかを調べると、どうやら子羊はそのとき何かに注意をひかれ、崖の手前で振り向いていました。
その目にキラリと光るものが映ったからです。
その光の原因を辿ると、一軒の青い屋根の家へ行き着きました。
その家の二階には、四十八歳の男が一人で住んでおり、窓辺にときどき大きな銀色のものが干されていました。その銀色のものが反射して光ったのでした。
*
男は水族館に勤めていました。
男は毎日水槽の温度を測り、餌を用意し、魚を愛し、魚の泳ぐ様子を見て回るのが喜びでもありました。
男はとても仕事熱心でしたが、それ以外はごく平凡な男でした。
ところが、あるとき男の心の中で、魚の泳ぐという動作をしばらく眺めているとおかしなことが起こりました。
魚が踊っているように思えてしょうがなくなったのです。
そのうち男はだんだん「自分も魚になって踊りたい」と思い始め、その考えが頭から異様なまでに離れなくなってしまったのです。
ある日男は一大決心します。仕事から帰ると男は頭に描いていた設計図をもとに必要な素材を近所のホームセンターで買い、銀色の魚の着ぐるみを作り始めました。
数日後、着ぐるみが完成しました。頭から足元まで男をすっぽり覆い、銀色の鱗と大きな目、背中には柔らかい背びれまでついていました。
男はそれを着て、部屋の中で一心不乱に踊るようになりました。
男はそれだけじゃなくいつのまにか部屋の壁も青く塗り、珊瑚や海藻、他にも様々な海の生き物の絵を描き、Amazonで買ったブラックライトも使い自分だけの世界を作り始めました。
男はその部屋で、毎晩のように汗だくになるまで踊りました。それは誰に教わったのか、自分でもよくわからない踊りでした。
島では男は「水族館の人」として知られていました。名前を知らない者にも、顔だけは知られていました。
やがて男は、とうとうその魚の着ぐるみの姿のままで近所を歩きたくなりました。
オーロラが出た夜になると、魚の着ぐるみのまま外で踊りたい意欲が高まっていきました。
しかし、島は地元の顔見知りが多いところです。どこで誰が見ているかわかりません。
男はいつも玄関の前まで行くと引き返しました。平凡な水族館の人として知られている四十八歳の男が、突然魚の着ぐるみで近所を歩くのは、あまりにもよくない気がしたからです。
誰も見ていない部屋の中で踊ることはできました。ただ、外へ出たい気持ちは、だんだん部屋の中に充満しました。男はとうとう自分を水槽の中にいる魚と重ね始めました。呼吸は少しずつ浅くなり、眠れない日が続き、ようやく眠ると「シューシュー」と寝息を立てるようになりました。
ある明け方、男の「シューシュー」という寝息が開いた窓から漏れました。窓辺には、洗濯した魚の着ぐるみが干されていました。
家の前の斜面にいた子羊は、その寝息を聞いて窓の方へ顔を上げました。
すると、銀色の着ぐるみが朝の光を受けてキラリと光り、子羊の目に飛び込んできました。それに気を取られ、子羊は崖の手前で足を滑らせてしまったのです。
そこから、15456355554415の連鎖が始まったわけです。
子羊の蹄が小石を落とし、小石から始まった何かが別の何かを動かし、それがまた別の何かを動かし、黄土色の惑星でほんの軽い地震が起き、砂埃が渦を巻きました。その地震によって月が髪の毛一本分ほどずれ、海が傾き、風が生まれ、雨雲ができ、天界の霧の「シューシュー」という騒音にまで連鎖しました。
連鎖というものは、一度始まれば最初の原因から離れたあともしばらく動き続け、姿を変えながら最初の音だけを連れていく性質がありました。
*
一方その頃も、虹のまわりでは霧がみるみるうちに広ってシューシューと、大きな音を立てていました。
天界では、すべてをあるがままにすることがよいとされていたので、天界の者たちはいったん霧も騒音もそのままにしておくことにしました。
みんなは虹の下で話し、雫が落ちれば、いつものようにダンスらしきものを始めました。
ただ、誰もが少しずつシューシューを我慢していました。
これはまた別の理由でも困ります。
天界では、我慢することもまた禁じられていたからです。
しかし、我慢しないで霧をどうにかしようと問題視すれば、平和で幸福に包まれた天界の尊厳にかかってきます。
だからと言って霧をそのまま放っておけば、みんなが我慢することになる。
天界人は直接地上の男へあれこれと指示を送ることはできません。
だから男がなぜ魚になりたいと思ったのか、その原因を辿り解明するしかありません。
しかし、その根源的な理由の発生条件だけはアカシックレコードにもはっきりと記されていませんでした。
記録係が何度調べても、男はある日、水槽の前で魚を見ていた、というだけでした。
(なぜ、男はあれほど魚になろうと思ったのか。着ぐるみまでこしらえて夜な夜な奇妙に踊るまで至ったのはなぜだろうか?)
アカシックレコードをいくら調べてもわかりませんでしたが、記録係はふと、古からのある言い伝えを思い出したのです。
それは「観測者のいるところに展開あり」という言葉でした。
記録係はしばらく考えましたが、天界にも地上にもその観測者を探し出そうとしても見つかりません。だからそのことは誰にも報告しませんでした。
再び会議が開かれました。
「男がなぜそこまで魚の着ぐるみを着て外に出て踊りたいと思うに至ったのか、アカシックレコードを調べたのですが原因はわかりません。しかし騒音は今も続いています。もういっそのこと男に外へ出て踊るよう、夢を使って伝えてみてはどうでしょう?」
「ダメです。騒音うんぬん程度の問題でこちらから地上の者へアクセスすることは禁じられているのはあなたも忘れたわけではないでしょう。それに、それだと男が自分の意志で選んだことになりません」
「では、このまま静観して、何もしないのか」
「男は本音では外へ出て踊りたいのを我慢しているんですよ。かわいそうじゃないですか。その抑圧がシューシューという寝息になっていて、ここまで連鎖していることは自明の理です」
しばらくして一人が言いました。
「我々が我慢することも、あるがままなのでは?」
誰も答えませんでした。
「やはり、何も決めないことにしましょう」
「何も決めないと決めるのですか」
「何も決めないと決めることを決めないのです」
「あぁ、これもまたあるがままですね。あはは」
会議は結局、何も決められないまま終わりました。
*
そしてこの物語も、ここで終わるはずでした。
何も展開が変わらないまま、そういう結末で終わるはずでした。
ところが会議が終わり、記録係がアカシックレコードを棚へ戻そうとしたとき、先ほどの調査のときにはなかった一行が増えていることに気づきました。
「観測者 一名」
記録係は、やはりおかしいと思いました。
しかし、どれだけ考えても、言い伝えである「観測者のいるところに展開あり」の意味はわかりませんでした。
記録係は「一体誰が観測しているんだって?まさか」と思いました。
自分やこの天界での騒音の話や、水族館で働く男の話の一連の話を、誰か外部の何かが観測しているなんてあるわけがないとすぐに考えを捨て去りました。
しかし、15456355554416個目の新しい連鎖は始まっていきました。
そうです。観測者が現れたことで、何も変わらないまま終わるはずだった展開が、わずかに動き始めたのです。
記録係には、その観測者がどこにいるのかわかりませんでした。
ただ、物語がここまで読まれた瞬間、15456355554417番目の影響が生まれました。
そしてこの影響が行き着いた先は、なんと男の決意でした。
男は銀色の魚の姿で、部屋の玄関前に立っていました。
いつもならここで引き返すところです。
いつもなら引き返す以外、あり得ませんでした。
しかし、影響が変わりました。
男はドアノブに手をかけます。
「あれ?」
「おいおいおい。みんな、男が取っ手に触りました!」
天界の誰かがすぐに気づいて言いました。虹の下にいた者たちは大騒ぎで集まり、霧の隙間から男を見つめます。
男がドアノブを握ると、天界のみんなも身体を前へ傾けました。会議であまり発言しなかった者も、いつの間にか全員釘付けのまなこで机の上に立っています。
そして、男はついに扉を開けました。
銀色の魚は、この瞬間狭い水槽のような部屋から心を解放させ、ついに外という大海原へ出たのです。
天界では大歓声が上がりました。議事録を空へ放り投げる者もいれば、雲を叩く者や、虹の上を走り出す者もいました。
男が歩くと、パン屋の窓の向こうで、女がトングを持ったままその銀色の姿を見ました。港へ向かっていた男は足を止め、子どもは母親の袖を引きました。
みんな少し驚いていました。
しかし男の目は真っすぐです。男はオーロラを目指してひたすら前に進んでいきます。数十歩歩くころには、パン屋の女はパンを取り、港へ向かう男は歩き出し、子どもはもう別のものを見ていました。
男は少し驚きました。
ああ、やっぱり簡単なことだったんだ。ほら、誰も彼も自分自身に夢中だ……俺はなぜこんな簡単なことで、あれほど長く玄関の前で逡巡していたのだろう……。
男はそう思って、これまでの自分を思い出そうとしました。
しかし、もうよく思い出せませんでした。
天界では虹から数え切れないほどの雫が落ち、誰からともなくダンスらしきものが始まりました。
霧はあいかわらずシューシューと鳴り続けていましたが、不思議なことに今それを気にする者は誰もいませんでした。
男には、天界の声は何ひとつ聞こえません。
男の着ぐるみの内側には、自分の足音だけが堂々と響いていました。
男がその日一晩中、オーロラの下で水を得た魚のように踊り明かしたことは言うまでもありません。
*
追伸。今日あなたがこの話をここまで観測したことも、アカシックレコードに追加で書かれているとか、いないとか。
- 神智学などで語られる、過去・現在・未来のあらゆる出来事や思考などが記録されているとされる、宇宙的な記録のこと。この物語では、「すでにすべてが書かれている」と同時に、観測されるたび新しい記録が加わるものとして描いている。まさにパラドックス。 ↩︎


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