探究が終わった直後の放電

ところで、真理探究という現象がこの世界から完全に消え去ったとき、真理は実現される。

これについては、原因と結果的にもわかりやすくとてもシンプルだが、

実際にそれが起きてしまうと、

「真理探究という現象は、真理そのものにとってみれば、一度も起きたためしがなかった」ということが、

「それ自身」イコール「それが答え」として、直接的に知られてしまう。

言葉にすると意味不明に聞こえるんだろう、と私も思う。

ところが「絶対意識」というこれまで、私が懸命に求め続け、追い求めた対象が、

まさかそれそのものに反転、転換するとは(目指していたくせに)

それがいざ実際に主体になると、(主体と対象をも超えたものだから主体とも言えないのだが)

・・もう、何のことか本当に分からなかった。

いや、正確に言えば、

混乱や悲壮や激怒やしどろもどろではなく、

すべてが「極めて単純な、不可思議性」であった。

これまでが、いかに複雑だったのか驚くほどだ。

とは言え、理由なき、「おおお!!!」という明瞭な高まりが、堰き止めていたものが溢れ出すように湧き起こるのだ。

そのときナマコ状態の私は忙しかった。

たとえば1分間で驚愕、大爆笑、大号泣、狂った踊り、素、放心、プカプカと大変目まぐるしかったのだ。

面白いことに人前では、まったくそれはおさまり、普通にできるのだ。


でも、近所の駅でやばい瞬間があった。

私は「駅!」「通行人!」「電車!」と、それらがあまりにも驚愕で、おかしくて、いや、まるでありえなくて、とにかく謎の感動が溢れて仕方がなかった。

夜には、「夜!」「星!」「そんなバカな!」といった忙しいものだった。

それは、不可思議でありながら、毎日の暇さや退屈、また肉体の死の恐怖さえをも無効化させてしまう強烈なものだった。(もちろん死にたくはないが)

もちろんずっとそうなわけじゃない、それらもまた自然に溶け込み、そして脱力にまた戻る。

だから私はしばらく、まだスパで常駐してた。

私には誰にも邪魔されない、放電の時間が必要だったのだ。

あらゆる無数の記憶、無数の感情、無数の痛み、悲しみがどこまでもこんこんと溢れ続けた。

とはいえ、放電しながらプカプカたゆたってながらも、起こるべきことはただ、適切に、もっと言ってしまうと最適に起きてくるものだ。

すいもあまいも。

私はしょうがないから、世界の好きなようにさせ続けていた。感謝。

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この記事を書いた人

パラトゥリクス管理人。

言葉になったものを置いています。

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