「真理探究という現象がこの世界から完全に消え去ったとき、真理は実現される」
これまで懸命に求め続けてきた「絶対意識」が、求めていた何かではなく、それそのものとして明らかになった。
実際にそれが起きると、正確にはもう二度と探すことができなくなった。
真理探究という現象は、真理から見れば一度も起きたためしがなかったからだ。
すると探究も実現も結局、紡がれた想念でしかなく、探究?実現?と何のことか本当に分からなかった。
混乱、絶望、拍子抜け、どれも違う。ただ、あまりにも単純であまりにも不可思議だった。
それまで自分がどれほど複雑な世界を泳いで生きていたのかにめちゃくちゃ驚いた。
そして、次の瞬間には、理由のない「おおお!!!」という脊柱から脳天まで駆け巡る高まりが、堰き止められていたものが決壊するように湧き上がってきた。
当時、私は忙しかった。
一分のあいだに、驚愕、大爆笑、大号泣、歓喜、そして素に戻った。突然放心し、また静かになる。その繰り返しだった。
面白いことに、人前では何事もなかったようにいつものように普通に振る舞い、会話できるのだった。
そんなある日のことだった。近所の駅でやばい瞬間があった。
私は、「駅!」「通行人!」「電車!」と、それらがあまりにもリアルに繰り広げられていることが、おかしくて、ありえなくて、とにかく涙が溢れて仕方がなかったのだ。
夜になると、「夜!」「星!」「月!」それから「そんなバカな!」と、あらゆるものが不可思議でありながら、それは日々の退屈や、肉体の死への恐怖さえ無効にしてしまうほど強烈な感動であった・・。
しかし、その高まりがずっと続くわけではない。
それらも馴染み、自然に溶け込み、今度は反転して私は強烈な無為の中へ溶け込んでいった。
だから私はしばらく、のんびりしていた。
邪魔されない一人の時間が必要だったからだ。
スープの中に強火で煮込まれているようだった。
あらゆる具材が・・記憶、感情、痛み、悲しみが、どこまでも尽きることなく溢れ続けては溶けていった。
スント・ラクリマエ・レールム
世界には涙がある。そう訳されている言葉がその頃の状態に妙に重なっていた。
その頃、私は毎日のように天気予報を見ていた。
大雨や台風が続いていたからだ。
私は「しょうがないな」と、世界という自己の動きに何もかも、放した。
世界は、いや存在そのものが大悲に満ちていた。
感謝が、大悲の中心を突き抜けるように溢れた。
気休めではなくそれは愛だった。悲しみさえ包み込むような、静かな微笑みだった。
同時にスント・ラクリマエ・レールムだった。
絶対意識のあと、私はしばらく脱力していた
絶対意識の直後、私はまるでなにか他の生物のようだった。
何かの動物・・いや、強烈な不活発と、とにかくじっとして煮込まれて、ただこのままここで在りたい衝動は、まるで海底に横たわるナマコのようだった。
私は、主体と対象が溶け落ちたあと、強烈な無為のまま都内にある某スパ・リゾートに常駐していた。
なぜかそこに頻繁に通い、朝から晩まで、岩盤浴や温泉でプカプカと放電し続けていた。
その頃の私は、ただ存在しているだけの現れだった。存在と言うより、もはや非存在の記号のような感覚で、残留した心身のエネルギーがただ暴れ出てどこかへ消えていくのを見守った。
これはちょうど、PCでシャットダウンを押しても即座に画面が消えず、「ウィーンウィーン」としばらく余熱を吐いてから落ちるあの感じによく似ていた。
脱力的に過ごしたその期間がどれくらいだったのか、短くも長くも感じた。
しばらくそんなサイクルを過ごしていたあるときふいに、これはとても自然なことだし、自分だけじゃないんだという確信を得た。
世界のどこか、いや大袈裟に聞こえるかもしれないけど、宇宙のどこかでもいい。時間軸も現在と限定しなくてもいい。その時の私には「集合意識の中のどこかでも、このような意識に至り、定着や深まりが急速に起こっている」と感じられた。
そして、これはまったく特別とは真逆のことなのだ、同時に、決して人ごとでもないのだと理解した。
私は今後なんのために生きようかと思った。
5億年ボタンという短編アニメを昔見たことがある。
その時の私は、あの主人公のようにただこのまま、ただ存在だけ、していたい。何もない暗闇で、永遠に幽閉されて何も起きなくてもかまわない。
たとえそれが五億年だろうが五十億年だろうが「絶対意識」からしたら同等だ・・と感じていた。
その頃、意志や動機となる、生命力というか今まで自分を動かしてきた衝動が無効化されてしまっていた。
それに、あれほどまでに強烈に燃えていた探究の衝動がどこを探しても見つからなかった。
これまで、純粋意識として在る瞑想をしたり、徹夜で聖典や哲学研究してみたり、宇宙や世界への尽きぬ興味に想いを馳せてみたり友達や恋人や聖者や師たちのことを想ったり、
結構それなりに楽しくも苦しくも大前提として毎日やることがあった。強い意志と夢中になれる何かがあった。
だけど、根こそぎ抜かれてしまったようだった。
まったくナンセンスだった、あらゆる何もかもが。
「一切合切、即、不可思議」でありながら「ただ、このままただそれとして在りたい、なぜならそうなのだから」という問いと答えをくっつける糊の消失、それに近い感覚だった。
さて、あらためて私はどうしたものかと思った。
それでも、それは実際には何も問題なかった。
身体は動き、行為はただ起きるままほとんど変わることなく起こされていったからだ。仕事も交友も。
とはいえ「ナマコ・モード」の私の真の職務は、絶対意識の海底でプカプカたゆたい放電するのみだったのだが。


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