明日の予定をどう組み替えるか考えていた。
その横で、もう一つの思考が勝手に始まった。
「ビンタと、ミルクティーを頭からかけられるの、どっちがいい?」
「は?どっちも嫌だ」
「選んで」
「ねえ、なんで私がそんな目に遭うの?」
まったく意味が分からなかった。
どうやら私は誰かをひどく怒らせたらしい。
予定の方も、結局まとまらなかったし、そのまま私は眠ることにした。
*
これが誰に向けて書かれたものなのか、今でもよく分からない。
かつて何かを失い、世界の隅でうずくまっていた自分へ向けたものなのか。それとも、これから何かを失う、親愛なる誰かへのはなむけなのか。
缶ビールを何本も空けた夜、酔った勢いで書き残した文章のようでもある。
ところが翌朝、床に転がっていた缶をよく見たら、全部ノンアルコールだった。
そんなキツネにつままれたような、不可解な気持ちだった。
文章の中には、同じ言葉が何度も残されていた。
喪失、おめでとう。
まったく縁起でもない。
誰かを怒らせるには、十分な言葉だった。
私自身、何かを失ったあとにこの言葉を見たらたぶん相当腹を立てるだろう。
何がおめでたいだ。
そう叫ぶと思う。
不可解さと苛立ちのさらに奥で、別の何かだけが静かになっていた。
*
ちょうど十九人目の日本人がノーベル賞を受賞した頃、私はすべてを失った。
私は少しずつ慣れるように失ったわけではなかった。
ドカンと来た。
一度に全部なくなった。
そのとき私はこう思った。
一体どうしたら、百パーセントの力で悲しめるんだ!と。
なんだ、この中途半端な悲しみは。
悲劇のヒロインになることさえ、うまくできなかった。
すべてを失ったはずなのに、泣き叫び続けることもできない。
静かにウロウロして、腹が減れば何かを食べるし、眠くなれば寝る。朝になれば陽は昇る。
そんな愚にもつかない無神経さが、自分の中にも世界の中にもあった。
*
その晩は眠れなかった。
台所に立って卵を二つ焼いた。
片方の黄身が潰れた。
私は少し腹を立てた。
すべてを失った人間が、卵の黄身に腹を立てていた。
そのことが、さらに腹立たしかった。
すべてを失った人間?
じゃあなぜ私は料理なんかしているんだ、こんな真夜中に!
スープを煮込んでいる間、昔友人に借りたままで返していない、『聖なる和尚との対話』という本を読んだ。
しばらく読んでみたが、今の私がすぐに楽になれるような人生訓や考え方は書いていなかった。
だが、あるページで手が止まった。
過去にとても大切な人を失った質問者が、延々と悲壮を訴えたあと、「これからどう前を向いて生きればいいのか」と尋ねていた。
次のページをめくると、和尚は沈黙したと記されていた。
私は腹が立った。
こんな状況で黙って逃げることが聖なる和尚なら、
スープの中に入れて煮込まれてしまえばいいと思った。
私は食欲もなくし火を止めた。
布団の中で叫ぼうとした。
いや、正確に言うともっと叫ぶ理由があればよかったのだと思った。
誰かに奪われたのなら、その人を憎めた。
運命のせいなら、空に向かって罵声を投げることもできた。
ところが丁寧に見てみると、私は奪われたというより、自分から何もかも捨てたようにも見えた。
望んで喪失したわけでも、決してそうしたかったわけでもないのに。
それなのに、すべてを失うと知ったうえで、
どこかのボタンを押したような違和感が消えなかった。
だから怒る相手がいなかった。
では、自分に怒ればいいのか。
はっはっは。そんな馬鹿馬鹿しい話もなかった。
気がつくと、一つの扉の前に立っていた。
*
扉は、古い建物の非常口にとても似ていた。
緑色の塗料がところどころ剥げていた。
両腕にはたくさんの荷物を抱えていた。
人からどう見られていたか。
誰に愛され、誰を自分のものだと思っていたか。
これから手に入れるはずだった未来。
絶対に失ってはいけないと思っていたもの。
重たい荷物だった。うまく扱いようがない。
もう、どれもどうでもいいように感じていた。
なくなった方がせいせいする。
そう思う一方で、腕はまだ強く荷物を抱えていた。
そのとき、思考と、その反対側にある思考が同時に走っていた。
いらない。けど返して。
どうでもいい。けど独りになりたくない。
全部捨てたい。そのかわりなにもかも新品のものがほしい。
私は目の前の扉を開こうとした。
理由はなんでもよかった。
取っ手があればつかむ。ボタンがあれば押す。拳銃があれば撃つ。
物語とは、だいたいそういうものだ。
途中で出てきたものがその後まったく何の意味も持たなければ、物語として整合性がつかないじゃないか。
ところが私の両手は塞がっている。
ためしに肩ごと突進してぶつかってみた。
扉は動かなかった。
すると、どこからか声がした。
これ以上、誰かの声を聞くなんてうんざりだった。
「置いていきなさい」
私は荷物を抱き直した。
「はっはっは。何を。これは私のものだ」
返事はなかった。
沈黙だけが続いた。どこまでもどこまでも。
「これがあるから苦しいんだ。分かってるよ。こんなもの、全部いらない。何もかも捨てて、私は何者でもなくなってやる」
すると、声が言った。
「何者は残る」
私は扉を見た。緑色の塗料が、一片だけ床に落ちた。
声はもう一度だけ言った。
「置いていきなさい」
優しい声だった。
その声が冷たかったのなら、
私はたとえ何億年でもここで意固地になっていただろう。
それだけだ。
とくに理由はない。
腕から荷物が落ちた。
床にぶつかり、ドン、と大きな音がした。
「喪失、おめでとう」
私は両手で目を覆った。
*
荷物が落ちてからずいぶん時間が経ったように感じられた。
私は扉の前に落ちた荷物から結局離れられないでいた。
喪失、おめでとうだと。
なんて嫌味で皮肉な言葉だ。笑って済ませろということか。
この傷を。
痛むものは激しく痛む。
声はしなかった。
私はその時、はじめて喪失したという事実にリアリティを感じた。
そうか、もう戻らないのだ。本当に。
もう戻らないのだと分かったとき、奇妙なことが起こった。
荷物は床に落ちたまま。
私はその前に立っていた。
それだけだった。
名前も、肩書きも、誰かに呼ばれていた自分も、床に散らばっていた。だから再び何度も拾おうとした。
だけど、腕を伸ばしかけて、やめた。
この繰り返しをここで何度やっていたのだろう。
手は空いていた。悲しみは残っていた。
だけどいつからか、その悲しみの底にほんのわずかな空間ができていた。
私はそのとき、なぜだか少しホッとした。
その安堵は失ったものへ、そしてこれまでの自分への裏切りのようにも感じられた。
私は笑って、呑んで、馬鹿話して、普通の人のように生きていいのか。
自分だけがこのまま扉の向こうへ進んでいいのか。
答えはなかった。
ただ、腕はもう空いていた。
私はしばらく取っ手を見つめていた。
*
私は、誰かの喪失そのものに向かって、外側から「おめでとう」と言うことはできない。
その言葉はいつも失ったあと、私の内側から聞こえた。
喪失そのものではなく、そのあとにも残っていたものへ、
私は祝詞を捧げる。
部屋は見慣れた景色だった。
鍋のラップをとり、冷めたスープを食べた。
布団に入ると、久しぶりに何も考えず眠った。
*
扉の前に、誰かが立っていた。
足元には、落とした荷物が散らばっている。
手は空いていた。その人は扉へ触れ、取っ手を引いた。
向こう側に、誰かが待っているわけではなかった。
祝福の宴もなければ、誰かが満面の笑みで両腕を広げているわけでもない。
その人がこちらを振り返る。
目が合った。
その顔を、私は忘れていた。
*
ちょうど十四歳の天才棋士が、デビューから無敗の二十九連勝を記録した頃、
私は喫茶店で友人の話を聞いていた。
友人は、もう誰も帰ってこない部屋の話をした。
壁には、剥がした写真の四角い跡だけが残っているらしかった。
「でも、全部必要なことだったんだと思う」
友人は笑った。
「いつまでも落ち込んでても仕方ないし。これも何かの転機だよ」
そう言って、友人はミルクティーのカップを持ち上げた。
私は、テーブルの上に置かれた友人の片方の手を見た。
何も持っていなかった。
何も持っていない。それでも、あなたはいる。
喪失、おめでとう。
あの言葉が、喉の奥まで上がってきた。
友人はミルクティーを一口飲み、カップを置いた。
私は何も言わなかった。
そして、残っていたミルクティーを取り上げ、そのまま飲み干した。
「ちょっと。それ、私の」
私は友人の手を取った。
「よっしゃ。酒飲みに行こう」


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