「パラトゥリクスでは、初めは純粋意識のテーマを中心にしようという予定で記事を書こうとした」
ところが面白いことが起きた。というか知った。
「絶対意識そのもの」の立場からしたら、純粋意識さえもどこかに消えてしまう。
どんな概念もそこでは成立しないからだ。
だから、純粋意識についての記憶や直接的な感覚が、私の中で失われたように感じた。
なので、それに関して語れないし、書けないだろうなと思った。
でも、人を前にしたり、キーボードを触ると、言葉は出るのだった。
誰が純粋意識を指して言語化しているのだろう。
これはあくまで主観だけど、師を想い、純粋意識の瞑想に明け暮れていた頃、
その時に残した「瞑想ノート(日記的なやつ)」よりも、簡略的に言語化できているように感じた。
また、探究者にとって、純粋意識の直接理解が前以上に大切な鍵になるのだと理解できた。
私自身が、「自分の〇〇」との同一化を溶かしていくプロセスで、とくに効果的だったものが、「純粋意識」として在ることだったし、日常からそれに馴染むことだったから、そう思う部分もあるのだけど。
ところが「絶対意識のシフト」以降は、
純粋意識を求めたり、あるかどうか確認したり、探したりする構造そのものが完全に無効化されてしまった。
だから、正確にいえば、いま、純粋意識を知っているとも言い切れないし、忘れたとも言い切れない。
ただ、必要な時、必要な言葉が出てくる。
パラトゥリクスは、私が書いているというより、書かれているようだった。
カフェにて。
傍から見たら「こうか、ああか」と真剣モードの顔をしているだろうけど、
同時に私はどういう話に繋がっていくかもわからないままキーボードをかちゃかちゃしていた。
気づいたらコーヒー中毒ぎみになっていた。


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