イエス・キリストの生涯を真理探究の地図として読む ① 洗礼と荒野の三つの誘惑

今回は、イエス・キリストについてのお話です。

最初に申し上げたいのは、これは聖書の話を基にした私の見解・解釈です。一般的なキリスト教の教義や聖書解釈とは異なる読み方も含みますので、その点はご了承ください。

私は、イエスの人生、運命、物語そのものを、「神が、神の子イエスの生涯を通して人間が霊性に花開いていく一連のプロセスを見せたもの」として見ています。

それから私自身キリスト教徒ではないにしろ、探究していた頃、特に苦しかった闇夜時代になぜか新約・旧約聖書を夜な夜な読みふけることがありました。

その頃、聖書に書かれている出来事や言葉を読んでいると、そこに込められたメタファーの意味が自分なりに直接見えてくることがありました。

その中で、自分にとって強く印象に残った箇所が、今回の記事でも扱うイエスの運命の流れそのものです。

物語としては、イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、その直後に荒野へ入って悪魔から誘惑を受ける。そして人々のいる世界で奮闘し、最後には十字架にかけられ、死と復活へ向かいます。

ヨハネの洗礼

まず、イエスの人生が大きく動き出し、活動が始まる頃、『マタイによる福音書』(3章13〜17節)では、

彼はガリラヤからヨルダン川へ行き、ヨハネと出会い彼から洗礼を受けると記されています。

ここでヨハネは、イエスに対して「自分の方があなたから洗礼を受けるべきです」とためらいますが、イエスは「今はそうさせてほしい。こうすることが私たちにとってなすべきことだから」という趣旨の言葉を返し、洗礼を受けます。

このあたり面白いポイントですね。

ここには「大枠として、そのとき必要なことは起こるべくして起こる」という流れが表れているように感じられませんか。

イエスはその時点で、ヨハネから「私があなたを洗礼していいものか」と思わせる何かをすでに秘めているわけですが、私にはこのやり取りが、イエス自身も深いところで「ここで彼から洗礼を受けることに意味がある」と知っていたように見えます。

そして、ヨハネから洗礼を受けた直後、イエスにとって重大な転機となる出来事が起こります。

洗礼を受け、水から上がると天が開き、神の霊が鳩のようにイエスの上へ降ってくる。さらに天から、イエスが「神の愛する子であること」を告げる声が響きわたります。

この場面を、私は「神の子イエスの神性が、物語の中ではっきりと開示される瞬間」として見ています。

神の子イエスの生涯を、人間の霊的な道のりに重ねて見るならば、私たちは元々「自分とはこの肉体と精神を持った一人の個人だ」と思って生きています。

しかし、あることをきっかけに「自己の本性は神聖な存在そのものである」と直接知ることが実際に起こり得る。

その可能性が、この場面に示されているように感じるのです。

話はそれますが、旧約聖書に「I AM(私はある)」という重要な言葉があるのですが、神が自らを「私はある」と名乗り、『ヨハネによる福音書』ではイエス自身も「アブラハムが生まれる前から、私はある1」と語っています。

神が自己紹介的に「私はある、だ」と伝える。

すると人間は「なるほど、神はやはり“ある”のか」と受け取る。

神は「いや、私は『私はある』なんだ」とさらに伝える。

人間は「おお、神はやはり在られるのか!」と喜ぶ。

神は「だから『私はある』が私なんだって・・」

人間は「おお、神は何度もおられることを強調してくださった〜」

と、いつまでも「神」と「私」に分かれて受け取ってしまうという、すれ違いがあるとかないとか・・。笑

さて、この洗礼の場面を私たちの覚醒の地図として読むなら、ここは「自己の本性を思い出す」という転機に重なります。

この瞬間、ある意味で、「何を探すか」の探究は終わりましたが、そこから神性への理解はさらに深まり、同時に試練も続いていきます。

物語はここから大きく動き始め、彼はその直後導かれるようにして荒野へと向かいます。

四十日間をそこで過ごしその中で悪魔から誘惑を受けるわけですが、

私はこの荒野での四十日間そのものにも、洗礼の直後にこの出来事が訪れるという順番にも大きな意味があると思っています。

覚醒後の試練

覚醒しても、自己の本性を悟っても心の抵抗は簡単には終わりません。

沸騰している鍋の火を切っても、湯気や泡はしばらく残ります。火そのものはすでに消えているのに、見かけ上、完全に静まるまでには少し時間がかかります。

イエスと悪魔の対話は、「神性」を知ったあとに、それまで自分そのものとして動いていた心がそれこそ強く抵抗し始める場面として読めます。

静けさを知ったからこそ、それまで見えなかった古い心の動きが以前より鮮明に現れ、元の状態へ引きずり込もうとします。

荒野は、外界から離れてその心と向き合う場所の象徴。

悪魔は、イエスを再び「個人としての私」へ引き戻そうとする力の象徴です。

悪魔は三つの誘惑を差し出します。2

石をパンに変えよ

最初の誘惑で、悪魔は空腹のイエスに石をパンへ変えるよう求めます。

「神の子なら、石をパンにすることくらいできるだろう」と。

対してイエスは、「人はパンだけで生きるのではない」3と答えます。

この「パン」は「肉体の喜び」や「目に見える物質的な充足」を表しています。

また、大事なポイントはイエスが「パン自体や、パンを食べて生きること自体」を否定したわけじゃないということです。

「人はパンで生きるのではない」ではなく、「人はパンだけで生きるのではない」と言っています。

肉体を維持するためにパンは必要です。健康を保つことも、食べ物も住む場所もお金だって必要です。

ただ、それだけで人間の幸福は完成するのでしょうか。

たとえば、あなたが一生豪邸で暮らせるとして、時間になれば世界中の食べたいものが運ばれてくる。着たいものも手に入る。会いたくなれば家族や友人を呼べる。好きな場所へ旅行も行き放題。もちろんお金もすべて無条件に支払われる。

実際そういう生活は楽しそうです。

しかし、イエスの「人はパンだけで生きるのではない」という言葉を借りるなら、何年、何十年とそのような生活をずーっと繰り返していても、時折、夜中に目が覚めて「・・はぁ」と退屈や憂鬱なため息が出ることがあるかもしれない。

パンに困らなくても、満たされないという話は全然ありえるということです。

では、パン以外に生きるために必要なものは何か。聖書的な言葉を使えば、それが「神」であり「真実」であり「霊の喜び」です。「物質的なものだけで人間の生のすべてが満たされるわけではない」という意味です。

ここからさらにもう一つ読み取れるものがあります。この象徴は、目の前の現実や現象、心の動き、なんであれ「自分の望む形へ変えようとコントロールする」誘惑にも見えます。

あなたはどこまでの深さで神を信じられるか?と試されているような箇所です。

あなたが神を愛し、神性を悟り、それが事実ならどんな流れが起きても「神の御心」として流れへの疑いを手放せますか?というところです。

そのときイエスは空腹状態です。肉体的には相当ピンチ。そして目の前には石があります。それをパンに変える力が自分にあるのなら、変えてしまえばいいわけです。

ここでは実際に奇跡や魔法の力があるかないか、という部分よりも、悪魔は「変えようと抵抗しろ」「コントロールしようともがけ」、つまり「する者」「行為者、コントロール者」に戻れ、「神の御心のままに」を放棄しろと言っているように見えます。

私たちも、現実が自分の望んだ形と違えば変えたくなるものです。どうにか望んだ結果へ向かわせようとします。

そう望むことがイコール悪じゃないんです。それすらも御心の流れの中にあります。ただそうしようが、そうしなかろうが、思いや行動がどうあれ起きることは起き、起きないことは起きません。

つまり、起きている流れそのものまで含めて「神の御心」「大いなる流れ」として受け取れるかどうかを問われているのです。

「充実した日々なら」神の御心、大いなる流れよ、ありがとうとなりますが、飢えてしんどい時や理不尽な苦難の最中では、その理解がどこまで深く根づいているのかが露わになります。

そんなとき、古い心は悪魔の声のようにこう囁きます。

「この状況をもたらした運命を呪え、激しく抵抗しろ、神を疑え、奇跡でどうにかしようとしろ。神を信じるなんて腹も満たさない非現実的な馬鹿な考えは放り捨てろ・・」

しかし、イエスは石をパンに変えませんでした。

神殿から飛び降りよ

次に悪魔はイエスを神殿の高い場所へ連れていき、神の子ならここから飛び降りてみろ、神は天使を遣わしてお前を助けるだろう、と誘惑します。

これは「本当にお前が神の子なら証明してみろ」という誘いです。

ここでイエスは、「神を試してはならない」4と答えます。

「神を試してはならない」とはどういう意味でしょうか。

神や神性とのつながりを、奇跡によって確かめようとすることでしょうか。自分が守られているなら助かるはずだ、特別な存在なら何かが起きるはずだ、と神に証明を要求することでしょうか。

ここからは、さらにパラトゥリクス的に読んでみます。

イエスと神が一つであるなら、そもそも誰が誰を試すのでしょう。

「本当に私を守ってくれるのか」「本当に私は神の子なのか」と疑い、証明を求めた瞬間、そこには再び「私」と「神」という二つが立ち上がります。

私はここを、神が「試すな」と怒っているという意味よりも、すでに一つであるものを、わざわざ心の中でもう一度二つに分けるな、という指し示しとして読んでいます。

つまりイエスは、神を疑う余地がなかったため、わざわざそういった「証明のゲーム」に乗らなかったわけです。

この誘惑で問われているのは、奇跡を起こすこと自体の善悪うんぬんではなく、「神との一体性を、心の中でもう一度二つに分けないこと」だと私は見ています。

そもそも奇跡を起こすこと自体が目的なら、みなさんもこう思いませんか。

「イエスに降りかかったすべての問題を奇跡で解決すればいいのに、なぜ迫害を受けたり苦労したのか?」と。

私には、その答えもここにあるように見えます。

イエスにとって奇跡は、自分に降りかかる出来事を都合よく変えたり、苦しみから逃れるための力というより、神の御心から起きるもの、と見ることもできるわけです。

イエス自身は、自分の運命を奇跡で都合よく書き換えるのではなく、起きてくる流れを神の御心として引き受け、その中を最後まで生きました。やがて迫害を受け、十字架へ向かいます。

もしイエスが奇跡ですべての問題を解決し続け、何事もなく生涯を終えていたら私たちが今読んでいるあのイエスの物語にはならなかったでしょう。その生涯の物語そのものが、はるか後の時代を生きる人々にまで残り、真理へ向かう道を示すものになった。

私はそこにも、聖書という物語が今なお読み継がれているほどの価値があると思っています。

世界のすべてを与えよう

最後に悪魔は世界の国々とその栄華をイエスへ見せ、自分を拝むならすべてを与えようと誘惑します。

富、名声、権力、世界を支配する力。とにかく「個人のもの、私のもの」として何もかも手にする状態です。

聖書本文でまず前面に出ているのは、「誰を拝むのか」という問いです。

悪魔は、「私を拝むなら、世界のすべてをお前に与える」と言います。

ここで面白いのは、ただ「持たせてやる」「所有させてやる」と言っているわけではないところです。

世界そのものを、お前の所有物にしてやる。

ここでまず立ち上がるのは、「これは私のものだ」と握る所有者としての「私」です。

「私の財産」「私の地位」「私の国」「私の人間関係」と所有する範囲が広がり、ついには「この世界そのものが私のものだ」となる。

世界の中にいる一人の個人だった「私」が、今度は世界全体の所有者、支配者になろうとするわけです。

ここからさらにパラトゥリクス的に読むと、私にはこの誘惑が、

「個であるお前が、この世界の神になれ」

と言っているようにも見えます。

神性を知ったあと、本来なら「個の私」と「世界」を分けていた境界がほどけ、「すべてが神である」という方へ開かれていきます。

式で言えば、「個の私|世界」という二分がほどけて、ただ「」だけが残る。

ところが、この誘惑では逆のことが起きます。

「個の私」と「世界」という二分を残したまま、個の私が世界全体を自分の側へ取り込み、

「この世界は私のものだ。ついには、この私こそ世界であり神なのだ」という方向へ膨らんでいき、

「すべてが神である」から、「この個人の私こそ神である」へとすり替わるわけです。5

「私のもの」と握る所有者としての個が、最後には世界そのものまで「私のもの」とし、神の座にまで座ろうとするわけです。

なので、ここの部分で言われているのは、富や名声や権力や人間関係を持つことそのものより、それらを誰が、どのように握るのかと問われているわけですね。

それ自体を単純に問題にすると、生まれた場所が王族や貴族ならダメ、社会的に成功したらもうダメ、霊性探究者はすべての所有物を捨てて布切れ一枚で過ごさないと堕落してしまうというナンセンスな話になってしまいます。

重要なのは、なんにせよそれらを「私のもの」として握り、さらに神性まで「個人の私のもの」にして、「私が世界の主人だ」「私こそ神だ」と個を巨大化させていくことです。

そしてこれは、最初に悪魔が求めた「私を拝め」という言葉ともつながります。

何を拝み、何に自分を明け渡すのか

神性を知ったあと、その神性を個人の欲望や望みを満たすために使うのか。それとも、その欲望や望みを握っている個人としての「私」自体を神の御心の中に明け渡していくのか。

イエスは世界のすべてを差し出されても神を選び、この荒野の中でもその選択を貫きました。

そして荒野を抜けます。

次の②記事では、荒野を抜けたイエスが再び世界へ戻り、その中で「神性」と「個人」がどう扱われていくのかを見ていきます。

  1. 『出エジプト記』3章14節、『ヨハネによる福音書』8章58節参照。アブラハムは、イエスより約2000年前の人物とされ、イスラエル民族の祖先・族長として旧約聖書に登場します。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教において非常に重要な人物で、聖書の系譜ではイエスもアブラハムの子孫として描かれています。そのためイエスの「アブラハムが生まれる前から、私はある」という言葉は、肉体として生まれたイエスよりも前から存在する「私」を示す、非常にインパクトのある言葉として読むことができます。 ↩︎
  2. 『マタイによる福音書』4章1〜11節。この記事ではマタイ福音書に記された「石をパンに変える→神殿から飛び降りる→世界の国々を与える」という順番に沿っています。『ルカによる福音書』では後半二つの順番が異なります。 ↩︎
  3. 『マタイによる福音書』4章4節。ここでイエスは『申命記』8章3節の言葉を引用しています。聖書本文では「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」という形で続きます。 ↩︎
  4. 『マタイによる福音書』4章7節。ここでもイエスは『申命記』6章16節を引用しています。その直前では悪魔自身も『詩篇』の言葉を引用し、神が天使を遣わして守るはずだと誘惑しています。 ↩︎
  5. パラトゥリクスの記事でよく「私は在る」「あなたがそれだ」「意識のあなた」「自己を知る」と書くときの「私」や「自己」は、肉体や性格や名前を持った個人の「私」を指すものではなく、その個人の私も世界も含めて現れている根本の存在としての主体である「私」「自己」を指しています。 ↩︎
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この記事を書いた人

パラトゥリクス管理人。真理探究、悟り、意識について書いています。

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