私たちは「3つの意識状態」を経験している
今回は、私たちは毎晩知らないうちに世界を失っているというお話になります。
起きている時は日常と呼ばれる現実があり、眠ると夢の世界が現れます。
さらに深く眠り熟睡に至ると、その夢さえも消えてしまいます。
朝になると、何事もなかったかのようにこの世界へ戻り日常を送ります。記憶のシステムが稼働し、睡眠、起床、日常へと流れて物語のつながりを確固なものにしてゆきます。
この流れを分けると次の3つになります。
- 目覚めている(起きている日常の)状態
- 夢を見ている状態
- 夢も見ない熟睡の状態
この中で「覚醒」と呼ばれているものを感覚的に理解するために注目したいのが「夢さえ見ない熟睡の状態」です。
この「熟睡」と「覚醒」は、言葉的には真逆の意味なのになんと密接な関係があるのです。
そのパラドックスを見ていきましょう。
熟睡中。時間も空間も消えている
私たちが夜眠り、夢を見ている時と、夢も見ない熟睡の時では同じ睡眠でもその質が違います。
一般的に夢を見やすい睡眠は、レム睡眠と関係が深いなどと言われています。レム睡眠では身体は休んでいても脳の活動が活発で、夢や映像や物語のような体験が起こりやすくなると言われています。
夢の中には景色や人物がいて、出来事が起き時間が流れ、主人公であるあなたはどこかへ移動したり話したり、怖がったり喜んだりします。
これは、夢の中であっても、「主体」と「客体」のような相対的世界観が現れているからです。
一方で、夢さえ見ない深い熟睡のあとには、そのような映像や物語は何もなかったように感じられます。
熟睡のとき、私もいないし悩みや人生の問題も、時間も空間も何もかもが消えていたように感じられます。身体を意識している微細な感覚さえ見つかりません。
完全な空白のような状態です。
なぜ「私は寝ていた」と分かるのか
熟睡中には何もかも消えていたはずなのに、
目覚めると私たちは一体なぜ「私は熟睡していた」と知っている、あるいはそう感じるのでしょうか。
個人や世界や認識が消えていてもなぜ自分が続いていた感じがするのでしょうか。
通常「私」とは、思考や感情や身体の認識によって成り立っていると考えられています。
ところが、目覚めたあとに熟睡を振り返ってもそれらの認識は見つかりませんよね。「私は在る」「私は存在している」という感覚さえそこには見つかりません。
それでも目覚めたあと、私たちは「あぁ、よく眠ったな」と言います。
じゃあ「私は在る」さえ見つからなかったその空白とは一体何だったのでしょうか。
個人側から見れば、そこには主体も客体もないため「個人としての私が、熟睡中に何かを見ている」という状態ではありません。それでも、存在そのものが失われたと断定することもできない。
この空白こそ、悟りや目覚めの本質へ近づくための大きなヒントになるのです。
「私は在る」は、世界が始まる入口
熟睡から目覚めると同時に、「私は在る」という存在感が現れます。
そのあとに身体、名前、記憶、時間、世界が戻ってきます。
「存在感」と聞くと身体感覚としての存在感やオーラ、雰囲気や影響力のようなものを思い浮かべるかもしれませんが、ここでいう「私は在る」とはそうしたものではなく、
思考や感情が現れるよりも前にある「存在性」のことです。
肉体感覚のような物質的なものではなくもっと微細で繊細なものです。
その「私は在る」を直接知ることが個人としての自分を超えていく、最初の入口になります。
「私は在る」も最終地点ではない
「私は在る」を頭で理解するだけではなく「存在そのもの」として何度も直接的に認識していくことが大切な修練になります。
その理解を深め、安定して在り続ける状態が「覚醒を生きる」と呼ばれるものです。
ただし、ここでさらに言ってしまうと「私は在る」も実は最終地点ではありません。
熟睡を振り返っても存在感さえ見つからないことが、そのことを表しています。
「私は在る」を知ることは、個人から意識へ移る大切な入口ですが、
その先には「私は在る」という意識さえ現れる以前があります。
それこそ永遠に消えることのない「それ」です。
まとめ
私たちは毎日のように世界が現れ、消え、再び現れることを経験し、朝目覚めると「私は在る」が現れ身体、記憶、時間、世界がはじまります。
熟睡のあとそのすべてが消えていたように感じられる、そのすべてに先立つものとは、
一体何なのでしょうか。
あなたの内なる探究に、至福と恩寵が降り注ぎますように。

