どこか懐かしいような、天井がある。
部屋のどこかから、一つの音が飛んできた。
「○○○」
そこにあったその身体が、わずかに震え、顔を動かした。
向こう側で、誰かの顔が笑っている。
すると、つられるようにその身体も口を大きく開いて笑った。
身体の奥で何かが高まる。
もう一度矢継ぎ早に同じ音が飛んでくる。
「○○○」
今度は、先ほどよりも深くその音の方へ振り向いた。
まだ、その音が何を意味しているのかは分からない。
しかし、音はもうただ聞こえているだけではなかった。
その身体のどこかがやわらぎ次の音を待っていた。
名前は外からやってきた
名前は、身体の中から自発的に生まれたものではなかった。
朝。
食事のとき、眠りから起こされるとき。その身体へ向かって同じ音が何度も飛んできた。
音が聞こえると、視線が集まる。手が伸びて頬に触れ、身体が抱き上げられると、新しい温度と決して嫌ではない匂いが流れ込んでくる。
音と、視線、触れられるその身体。それらはいつもどこかで重なっていた。やがて、その音が聞こえると、身体のこわばりが少しだけほどけるようになった。そして、すぐに振り向くようになった。
振り向けば、誰かの笑いと重なる。
こうして、ただの音が、一つの身体を指す印になっていった。呼ばれているのは、この身体だ。この手、この顔、そしてこの声。そこに起きる痛みや心地よさ。
それらは、名前とともにこの内側へ集まってきた。
署名のない契約
思えば、不思議なのは、誰も契約書を差し出したわけではなかったことだ。
「この身体を私としますか」
そう尋ねられたこともないし、署名して、印鑑を捺したわけでもない。
それなのに、ただそこにあった身体を「私」とする途方もない契約は、いつの間にか常識のように成立していた。この名前が呼ばれたら、私が振り向く。この身体が傷つけば、私が痛い。この身体が褒められれば私が褒められ、この身体が拒まれれば私が拒まれた。
喜ばれた記憶も、叱られた記憶も、愛されたことも、見捨てられたように感じたことも、なんだって、同じ名前のもとへ積み重ねられていった。
名前は、小さな箱のようになった
その中へ、身体と記憶と感情が入っていく。
箱の外側には、名前の違う「別の人」たちがいた。
別の身体、別の考え、それぞれに違う人生がある。名前が増えるたび、世界には境目が増えていった。
「◯◯◯」
その音の中には、いつの間にか、一人の人物が住み始めていた。
「私」
二つの身体が振り向いた
大人になっても、その名前を呼ばれれば、私の身体はいつものように表情をかえ、振り向く。
ある日、人の多い場所を歩いていると、後ろからその音が聞こえた。
「おーい、○○○」
「え?」
身体はすぐに振り向いた。でも、呼ばれていたのは私ではなかった。少し離れた場所で、見知らぬ誰かが振り向いていた。
同じ音に、二つの身体が反応していた。その人にも、その名前で呼ばれてきた時間があるのだろう。
名前は、私だけのものだと思っていた。けど、その音は別の身体にも届いた。
こちらとは違う記憶を抱え、違う人生を歩いてきた誰かを同じように振り向かせた。
その音が誰へ向けられたものなのかも確かめずに。契約は、もう骨の髄まで染み込んでいた。
名前が私を呼んでいる
その音を選んだのは、自分ではない。
初めて呼ばれたとき、その意味さえ知らなかった。今では、聞こえた瞬間に「私が呼ばれている」と分かる。
また、音が鳴る。自然に身体が振り向く。その音が「私の名前」だと分かるより先に、音はすでに聞こえている。
では、最初にその音を聞いたものは、
いま、どこにいるのだろう。


