創世記 ③名前という契約と、「私」の誕生

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前回のまとめ

ようこそ、パラトゥリクスへ。前回は、分離のはじまりについて書きました。

世界は、なぜ起こったのか。誰がそれを始めたのか。神なのか、原因はなんなのか、意図は?目的は?

しかし、究極の立場から見るなら、その問いそのものが途中で絶たれてしまう。

なぜなら、原因と結果が成立するためには、時間と空間が必要になるからということをお伝えしました。

時間と空間が生じる以前の領域では、「なぜ起こったのか」という問いは成立しません。

だから、私はこう書きました。ただ、起こった。

そして同時に、絶対・超越の立場から見るなら、分離は、起こっていない、と。

起こった。でも、本当は何も起こっていない。

この聖なるパラドックスを抱えたまま、物語は次へ進みます。

起こっていないはずの分離は、やがて身体に結びつき、名前に結びつき、記憶に結びついていく。

そして、ついに「私」という感覚が形を持ちはじめるのです。

Oh!まさに驚愕。

さて、とはいえ、「分離の揺らぎは起こっていない」という絶対の立場だけをずっと掲げて話を進めていくと、記事も、サイトも、お話も、何も成立しません。

沈黙ではじまり、沈黙で終わる白紙の記事の連続になってしまう。

種の発芽と物語のはじまり

それは、私なりに描写するなら、  

あなたは街を歩いていたとします。風が強い日でした。 

強風が吹いて、その拍子に髪の毛が一本だけ抜け落ちました。 

でも、あなたはそのことにまったく気づいていません。 

(あ、いま髪の毛が一本抜けた)とは気づかなかったのです。 

つまり、それが起きたことを気づかなかった。  

知らない。不可思議。

「  」は「  」のままです。ずっと、

なぜか?「  」だから。 

起きたけど、知らないならば、知らぬまま

それでも、その抜け落ちた髪の毛の目線で見れば、とてつもない大騒動が起きたわけです。 

まるでこのように見えるでしょう、真空が完全な無ではなく微細な揺らぎを孕むように、完全性もまた、ずっと完全性のままではいなかったかのように。

そのようにして突然、世界という名の、壮大な幻想劇が立ち広がりました。

あなたは、世界という未知の何かと触れ合った瞬間を覚えていますか

最初の瞬間、あなたはちょうど、深い熟睡の底から、少しずつ心が動き出していくのとちょうど同じように、その微細な、気配のような「動き」を感じたはずです。

そのとき、不動の絶対意識のあなたの前面に、動きとしての、「全体意識のあなた」が表現された。あなたは最初は自覚なくただ在った。
たとえその内に投影された光の映像が現れ動き回ったとしても、完全に記憶も自覚もありませんでした。

まだそれを認識する者や、見る主体は、存在していなかったためです。なので、あなたに物心がつく前、そこに分離はまだありませんでした。あなたは「絶対」であり、「全体意識」であり、「宇宙意識」の在り方に安定していた。 

まだ、全体と主体と対象と呼べるような区切りは無く。内も外も、上も下も、身体も心も、まだ分かれてはいませんでした。すべてが無条件に許されていた。それは、なにもかもが、存在そのものへの愛として充満していました。

ところが、潜在的には、ある「種」がすでに備わっていました。ヴァーサナーです。 

それは、記憶の残響であり、抑圧された感情であり、情念であり、欲の種でもありました。なによりもそれらが強固な鎖のように自分自身に絡み付いていました。まるで、離れ離れになりたくない、というような。どこまでも沁み渡るような悲嘆でした。

その種が発芽したとき、意識は少しずつ身体と結びつき、時間と空間の中にふたたび自らを固定し始めました。

そして、パラドックス的に、この始まりが成立したと同時に、つじつまを合わせるように、瞬く間に、幾億の過去と未来が同時に創造されました。それが夢のシステムであり、エゴシステムです。

決して誰かと契約したわけじゃないけど、強制的に組み込まれていく

全体意識のあなた。宇宙意識のあなた。広大で、無限で、限界を知らないあなた。 

そのあなたに、最大の悲劇、あるいは最大の喜劇が訪れます。 

突然、あなたは無限から、点のような「その肉体」に棲家を決定され、結ばれていきます。 

あなたは、「この身体を私としますか?」と尋ねられたわけじゃありません。
また、あなたは、人生という物語を始めるための契約書にサインしたわけでもない。

なのに、気づいたら、身体と同一化してしまい、ただ人生物語は休むことなく映し出されていきました。 

まるで不条理な小説であり、大冒険です。

とにもかくにも、条件が整ったとき化学反応が自然に始まるように、分離は起きました。

名前という契約のしるし

はじめに名前が与えられました。あなたは「◯◯◯」という音と、少しずつ同化していった。(◯◯◯の中にご自分の名前を当てはめてください)

名前。名という、ことばの音。その音が何度も繰り返されることで、何度も目の前の身体に注目されることで次第に名前と身体が結びつきはじめました。

これは、呼ばれるたびに振り向く身体の動作が、現象として何度も起こることで、呼ばれる前にはなかったはずの「行為者としての私」が、少しずつ当然のものとして立ち上がっていく習慣的な催眠のようなものです。そして、やがて記憶が発達し、身体の中で「私であり続ける身体感覚」が形成されていきました。これが、肉体感覚との同一化です。

そして、主体と対象という分離的価値観が強まっていき、世界は、風景、親の顔、声、表情、反応、身体感覚の重さや軽さを通して映し返されます。こうして、姿形のない無限の広がりであった全体意識であるあなたは、物質的な領域に宿り、肉体に物心を宿します。原初のアイデンティティの確立です。

身体は「私」
身体以外は「私ではない」

感情は私のもの。思考は私のもの。記憶は私のもの。人生は私のもの。

このようにして、あなたは「私のもの」を増やしていった。

そして、その分だけ、世界は自分ではない外側のもの(主体と対象)として分かれていった。

他人は別のもの、私ではない。 

世界は別のもの、私ではない。 

この身体以外は、別のもの、別の何か、私ではない。というように。

これは間違いが、起きたのでしょうか?

いいえ、なるべくしてなったプロセスでした。あなたはなにも間違っていません。 

なにより、何度も言うようにあなたに意思決定はなかったのだから。

だけど同時に、この瞬間から失われたものがありました。それが、

分離以前の静寂。分離以前の満ち足り。分離以前の、理由なき安心です。

エゴシステム──それは不安と恐れを軸にした基盤です。分離とは、境界とは、バラバラとは、不安や恐れそのものだからです。それでもエゴは「幸福を求め、不幸を避けるため」つまり、自己愛、自己探究のために、動き続けていきます。 

このように「個、身体、マインド」を、中心にした偽の「私」が疑いの余地もないほど確実に設定されました。

そしてエゴとして、心は、その設定を維持するために、世界を解釈し続けるようになっていきます。

この物語は、熟睡時を除いて、今もなお休むことなく続いています。 

それでもひびが入る

さて、こうして個人の物語が始まりました。名を呼ばれ、身体を動かし、記憶の中で、感情と思考がまとわりつき、気づいたときには、もう「私」と「物語」が色濃くありました。そして、世界は、いつの間にか「私ではないもの」として外側に広がっていきました。

しかし、分離以前の「それ」が消えたわけでは決してありません。曇ったガラスのように見えなくなっただけです。その静けさもその感触も、深いところではずっと残り、あなたに呼びかけています。 

だからこそ、ある時ふと、個人の物語にひびが入るのです。 

それは、ノスタルジックで、説明の難しい、理由のない虚しさかもしれないし、違和感や疑問かもしれないし、
どこにも帰れないような感覚として溢れるものかもしれません。
そして、私は何者なのか、本当の自分とは何か、という問いとして突然、自己回帰、真理探究の衝動が起こるかもしれません。

このような衝動や問いが生まれたとき、物語は少しずつ反転し始めます。

物語とは創造、維持、破壊という構成になります。  

輪は永遠に回る。だけど、目覚めの誘いも常にある。 

自由意志なき輪の中に、ただひとつにして最高の自由意志に見える決定が現れる。

 それが──

  • これまで通りの世界に戻る、か。
  • スイッチを押し、偽りの自分や世界が崩れ、本当のことを知る側へと運ばれていくか。

真理探究とは、ある意味で、この選択の決行です。

実際に、誰かに二つの選択を聞かれるわけではない。
しかし、人生の物語の中である日突然、自分の内側に問いと決断が生まれる。

私は何者なのか。本当のことが知りたい。この世界は、本当に見えている通りのものなのか。もう賽の河原のような偽りの牢獄はごめんだ。

このように、目覚めに向かう者には、いつの時代も似たような兆しが現れる。 

誰もがはじめの頃は愛と光と永遠をこの地に求めるが、空虚感。虚無感。閉塞感。異物感。疑問。既視感。問い。違和感でことは終わる。それでも、月の光のように真我は常にあなたに故郷への帰還の手紙を贈り続けている。

それが内側の深いところからの違和感である。

そのような問いや違和感が生まれた時点で、すでに目覚めの物語は始まっている。
あなたはまだそれらの感覚的想念を言語化できないかもしれないし、それはまだ弱く揺れやすいかもしれない。  

しかし、もう元の眠りへ完全には戻れない。 

なぜなら、一度でもそういった疑問が生じたなら、あなたは見て見ぬ振りはできなくなるから。 

しかし、個人は本当には選んでいない

ここで、最後に私はまたしてもひとつパラドックスを挟まなければならない。

そのように探究に向かうことも、真実を求めることも、一見するとあなた、つまり個人の選択のように見える。
そう見えて、感じて、それはそれで正しいです。相対的にはそうですから。 

けど、絶対的、究極的には、ほんとうはそうではない。

個人のあなたとは、それが確実に本物の私だとして自己保存を懸命に死守しようとする運動そのものである。

不足を埋めようとし、恐れから逃れようとし、変化させ、進化を求め続け、世界の中で自分を守り抜こうとする。 

良い悪いではなく、それが個人の基本的な性質である。

つまり、そうである以上、個人そのものが、自らすすんで「真我へ」向かい、「偽りの自己イメージや世界の現実性の消滅」に向かうことはできない。

つまり、ほんとうの意味で「真理」「真の我」「目覚め」や「覚醒」を選ぶことは、あなたにはできないのである。

では、誰が呼んでいるのか

では、誰がその扉を叩いているのか。

誰が、このイリュージョンのような、この意識の織りなす世界の中に違和感を送り込み、問いを生じさせ、背中を押し、真実へ向かわせ、目覚めへの道へ歩みを進ませるのだろうか? 

私たちは一体誰に守護されているのか?物語は次に進みます。

あなたの内なる探究に、至福と恩寵が降り注ぎますように。

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