完全なものには個性がなく、不完全なものには個性がある
私たちは、悟りや真我探究の方面の話に触れる時、さまざまな宗教や教えや伝統から、ステレオタイプの型やイメージを思い浮かべてしまうことがあります。
こうならないといけないような気がするというか。
例えば、俗世界とかけ離れたような高尚さであったり、心が落ち着き澄み切っていて、平和で穏やかで清らかで、
慈悲深い神聖なエネルギーをまとっているような。つまり、普通ではない特別な人格のことです。
もちろん、それを誰もが大々的にはそう目指しているってよりも、水面下に普通の自分のこのままの人格ではいけないような、微細な思い込みのようなものかもしれない。
だから人は、純粋意識で在ることを思い出したあと、このまま浸透や深まりが増すと個人の質や性格や人格が変わり、精神の革命が起きると、どこかで考えるものです。
これについては、イエスでもあり、ノーでもあるように思います。
たしかに、純粋意識に安定しはじめることで、実際にそのような変容が起きることもあると思います。
それはなぜか?
それは、自然に不動心が養われ、分離や境界の概念、「自|他」はバラバラだという思い込みが、徐々に弱まって融けていくからでしょう。
ただ、ここで問題なのが、人格の変容それ自体は、結果として自然に現れることはあるかもしれないけど、
それを目指す道が、イコール真我探究の主題ではないんです。
もし、必ず特定の人格にならなければならないとか、性格が変わっていない自分は駄目だと悩んでいる人がいたら、
ここで、真我探究のために人格と戦わなくていいということをお伝えします。
もちろん、人格を整えることに意味がないということではありません。
ただ、真理を求める過程で人格が平和になることと、人格を平和にするために真理を求めることは、目的が違う話という意味です。
センターピン
真我探究における主題、目的、センターピンは、性格や人格を理想的な形に作り替えることではなく、シンプルに真我を実現し、安定することに尽きます。
探究の過程で、エゴの「私はこれである」という同一化が融けていきます。
ただ、真我探究と、人格の変化探究を混ぜると、気づけば探究の目的が別の方向へ進んでしまうことがあります。
なぜかというと、最終的に人格やイメージもまた一時的に現れているものとして見られていく必要があるからです。
ところが、そこを混ぜると、「いつでも精神が清らかであるべき私」だけが、見抜かれず残り続けるからです。
私たちは、どうしても歴史的に微笑みを絶やさず、怒らず、乱れず、世俗から離れ誰からも尊敬されるような振る舞いを見せた神の化身のような聖者の物語を探究の過程に学び知ってしまいますから。
でも、必ずしも実現者は同じような人格や雰囲気をまとわなければいけないわけじゃないという話です。
それに、実は実現者といっても、歴史上さまざまなタイプがいるんですよ。
それ、現れ、表現、さまざま
たとえば燃えるように激しい現れもあれば、沈黙のまま隠遁する現れもあります。親しみやすい、皮肉を効かせる、あらゆるものを一刀両断する現れもあるし、一見すると俗っぽく自由気ままに見える現れもいる。
真理の現れ方は、その者の身体や気質、時代や運命の中で、実にさまざまな形を取ります。
だから、激しい性格だから絶対に浅いとは限らないし、また、穏やかで神聖に見えるから絶対に深いとも限らない。
ここの見分けは、かなりややこしいです。これはマーヤのかくれんぼの部分ですね。
真我と人
真我そのものは、不生不滅で、やはり色も形がなく、欠けや比較の外にあります。だからこそ完璧、完全なものと言えてしまう。なので、私たちの真我そのものは共通のものです。
一方、人として現れる存在には、誰一人として同じ者はいません。動物や鉱物、植物も同じです。
身体も気質も、機能も歴史も違うし、何を避け、何を求め、何を選ぶのかも違います。
だからこそ、私たちはどこかで欠けていない完全なものを求め、同時に、不完全な自分に嘆くこともあるのかもしれません。
ただ、その私たちの不完全性を、欠陥品だと言いたいわけではありません。
人は全体そのものではなく、限られた一つの形として現れています。何かが好きで向くけど、何かを嫌い避けます。得意なもの苦手なもの。偏り、性質、強さも弱さもあります。
これは、確かにあえて悪く言えば不完全ですが、良く言えば、個性であり、ユニークさであり、この世界に現れる唯一無二の表現であり、現れです。
不完全という言葉には、どこか暗い響きがあります。欠けているとか、足りない、直さなければならないもの、どうにかして乗り越えるべきもののように聞こえます。
そのため私たちは、人として欠けているものをなくし、どこかで完全な形へ近づいていくことを成長、成熟だとする。
ただ、そこで求めていた完全さは、「人格を一つの型へ完全に整えること」ではなかったのかもしれない。
なぜなら、人格、心、精神は「相対的価値観」に絶えずさらされているからです。
つまり、「100パーセントの完全」ということが不可能だと言える。
すると、私たちが本当に切に求めていたのは、個として性格や人格を完全にすること、また世界を完全にすること、人生を完璧にすることではなく、
すべてに共通しているすでに完璧である真我、真の自己そのものだったのかもしれないというお話です。
真我と個性
真我が明らかになった時、実は人の個性まで消えるわけではありません。
むしろ、人格の中に完全さを作り上げる必要がなくなるからこそ、自分や他者の不完全さを、以前より赦せるようになるのだと思います。
私たちには一人一人個性があり、良くも悪くも限られた形だからこそ、
一人ひとりが違う表現や、違う絵を描くことができます。
だからこそ、逆に人間くらいは、すこし変でいいのかもしれない。
全員が完全で、同じ完璧な顔で、聖なる微笑みを浮かべる世界。
その天国のような世界を、あなたはどう思いますか?
うん、かなり、良いかもしれません。
ただ、そこでは今ほど多くの物語は生まれないのかもしれません。

