呪いの正体 ③ 宇宙は、なぜ終わりたくないのか【完】

前回の「呪いの正体 ②」の記事では、呪いの正体は「ノロいこと」だと書いた。

この完結編は、なぜ、すべてはこれほどノロいのかという話になる。

ひとつのドラマが終わった瞬間、形や色を変え新たなドラマが繰り返される理由。

その答えは驚くほどシンプルだ。

宇宙は、終わりたくないのだ。

というより、そもそも始まりと終わりは、私たちの心がつけた区切りだ。

人間から見れば終わりでも、宇宙から見れば次への始まりになる。反対に、人間から見れば始まりでも、それはすでに終わりへ向かう最初の一歩でもある。

「始まり」と「終わり」は、別々の出来事ではなく、同じ運動をどこで切り取るかによって、呼び名が変わっているにすぎない。

「宇宙は終わりたくない」というのは、宇宙に人格や想いがあるという意味じゃない。ここからは、私が宇宙という一つの大きな運動をどう見ているかという話になる。

よく宇宙は「創造─維持─破壊」を繰り返すと言われているが、創造とは、何かが始まる一瞬の呼び名であり、破壊とは、何かが終わる一瞬の呼び名だ。

そのすべてを含む、途方もない時間のほとんどは維持に使われている。

はっきり言おう。

創造と破壊は、壮大な維持の始まりと終わりの瞬間に生じる針の一刺しのようなものだ。

内容のほとんどは維持である。いや、「創造─維持─破壊」は一つの大きな運動を切り分けた呼び名にすぎない。宇宙はまるで維持するために、創造と破壊を繰り返しているようにさえみえる。

たとえば、あなたにあるアイデアが湧いたとする。

そのアイデアが湧く瞬間は一瞬の一刺しだ。

しかし、そのアイデアについて考え、練り、思い馳せ、形にしようとしたり、計画を立てたり、実際に行動したり、結果が形になるまで一喜一憂する時間はとても長い。

プロセスは、何度も失敗を繰り返しながら、維持され進化していく。

これは、のちに最初に思い描いていた形とはまったく違うものになることもあるし、途中で何を目指していたのか分からなくなるほど迷った末に、思ってもみなかった景色へ大きく転換していく場合もあるだろう。

それでも、そのアイデアから始まった動きは、形を変えながら維持され続ける。

そして、ある時、そのことを忘れ、考えなくなる。気づかないまま記憶から薄れていくこともあれば、何かのきっかけによって一瞬で終わることもある。

いずれ、寿命が尽き、その想念ごと空の彼方へ消えていく。
始まりと終わりは一瞬で、そのあいだにある流動だけが、膨大な時間と回数を重ねる。

変わり続けることで、続いていく

維持というと、同じ状態をそのまま保存することのように聞こえるかもしれないが、実際の維持は、ずっと同じ形を保つことでは成り立たない。

株価や心電図のように、上下し、揺れ、形を変えながら、それでも一つの連続として続いていく。

形を変え、色を変え、名前を変え、時には正反対の姿にまで変わることで、同じものが続いていく。

人間の身体もそうだ。

昨日の細胞と今日の細胞は少しずつ違う。古いものは新しいものにとって代わり、その新陳代謝そのものによって身体は維持されている。

環境も考え方も感情も、生活も人間関係も行動も変化している。

それでも私たちは、昨日の自分と今日の自分を同じ人として扱っている。変わり続けることによって、同じものが維持され続いている。

宇宙もまた、星が生まれ、燃え、崩れ、その残骸から別の何かが生まれる。

人が生まれ、何かを望み、その望みが別の人へ渡り、最初の人がいなくなったあとも、似た動きがどこかで繰り返される。何かが始まると、それは全体に影響の波紋を与える。

人が何かを望むためには、宇宙や世界の状況が必要不可欠である。つまり、ある人にある望みや意志が生まれ、それが維持され続けるには、宇宙や世界の流れ、状況が少しでも違ったら、その望み自体が生まれていなかったのかもしれないということだ。

その影響は、目に見える形を取ることもあれば、目に見えない形で残ることがある。

そして何かが消れるたびに、別の形が生まれ、始まる。完全に終わる代わりに、姿を変えて続いていく。

一つの出来事が、きれいに始まり、きれいに終わるなら、世界はもっと早く静かになる。

失敗があれば次の計画を生み、喪失が新しい執着を生み、次の企画、次の答えとして、次の始まりを生む。

宇宙には人格がないけど、私たちには言語表現がある。言葉にするならばまるで「終わりさえ、次の始まりに使われる。終わりたくない。ゆっくり永く味わいたい。ずっとずっと形を変え、色を変え、何度でも繰り返したい」
と言っているようだ。

その力を、宇宙的自己保存と呼ぶこともできる。

この力によって生命は続き、関係が生まれ、世界も維持されているが、同時に、苦痛も執着も、終わらせたいのに終わらない物語も続いていく。

祝福と呪いは、同じ場所から生まれる

この運動サイクルが、続いてほしい側から見れば「祝福」となり、終わってほしい側から見れば「呪い」となる。

この、動きというシステムに徹骨徹髄疲れ切った者がいる。
「生まれて、求めて、手に入れて、失って、また求める」
「出会って、別れて、傷ついて、立ち直って、また誰かと出会う」
「理解したと思えば新しい問いが生まれ、ようやく辿り着いた場所も、しばらくすれば次の出発地点になる」

こうしたプロセスに、もういい、もう十分だと感じ、従来の心のシステムや想念の運動、無数の展開や繰り返しそのものから解放されたいと願う者がいる。そのような解脱希望者からすれば、これほど完璧なほどしつこい宇宙は最大級の呪いだ。

私は彼と乾杯する。

一方で、この動きというシステムに果てしない好奇心と味わい深さを感じる者もいる。

まだ見たことのない景色。まだ出会っていない人、これから出会う物語がある。
願い、希望、輝かしい未来の実現、無限の可能性。美と醜さのコントラスト、神秘、奇跡との接触と驚愕。

分離していた二つのものが出会い、境界を失うほど一体的になり、ハートが溶けていくような喜び、平和、輝き。
個として生まれたものが他者に触れ、世界に触れ、自分だと思っていた境界を溶かしどこまでも大きく広げていく。すべてと繋がるような、大どんでん返し的至福。

もっと見て、もっと知り、深めたい。この途方もない世界を味わいたい。そう願う者からすれば、この終わらなさは最大級の祝福だ。呪いだって?いいや、祝福の道の程よいスパイスでしかない。その者は宇宙の無限の可能性を讃え、様々な体験を味わい踊る。

私は彼女とも乾杯する。

そして奇妙なことに、宇宙はその2種の者どちらも排除しない。

というか、宇宙は終わりへ向かう者も、なお続きを望む者も、その正反対の流れごと一つの大きな運動の中に抱いている。

最初の呪いへ戻る

さて、ここで、前回の①の記事の話へ戻ろう。

ある人が裏切られ、自分の子供へ「人のことは簡単に信用するな」と言った。その言葉は子供を守った。

また同じ言葉が、その子供から誰かを信じる力を奪った。やがて言葉そのものは消えても、その影響だけが残り、まったく別の誰かへ渡っていく。

その影響が人を縛り、苦しめるものとして残る時、①ではそれを「呪い」と呼んだ。だが、先に言ったように、この宇宙では何も同じ形では残れない。

その恐れも慎重さも、また、形を変え、色を変える。

つまり、その影響も同じ形のまま永久に残ることはできない。

恐れは人を遠ざける。そして、遠ざけることで人は孤独を知る。孤独は痛みになる。
最初は、なぜ自分にはこんなことが起きるのか。自分だけがこんなに苦しいと思うかもしれない。

だが、ある時、まったく違う人生を生きてきた誰かの中に、自分とよく似た痛みを見ることがある。
自分だけのものだと思っていた苦しみが、その人の中にもある。その時、「私の痛み」だったものの中に、初めて他人が入ってくる。

痛みが消えたわけではないが、それでも、自分だけのものだった痛みが、少しだけ広いものになる。やがてその痛みが、別の誰かの痛みを理解する入口になる。


理解は共感へ変わり、共感は、それまで自分とは関係がないと思っていた誰かとのバラバラ感や境界を少しずつ溶かしていく。願いは欲となり、欲は恐れとなり、恐れは痛みとなる。痛みはやがて他者の痛みと出会い、和解や共感へ姿を変えていく。

共感は「私」と「他人」を隔てていた境界を少しずつ溶かし、個人的だったものを集合的なものへと広げ、やがて全体意識へ繋がっていく。

もちろん、すべてがこの例や順番通りとは限らない途中で止まることも、何度も同じところへ戻ることも、一人では終わらず、何世代もかかることもあるだろう。

それでも宇宙をまだ味わいたいものは、個から全体へ向かっていく。
自分だけだったものに家族が入り、誰かが入り、知らない人が入る。自分とは無関係だと思っていた人間の喜びや痛みが入る。動物が入り、森が入り、海が入り、星が入る。

どこまでが自分で、どこからが世界なのか。その境界そのものが少しずつ曖昧になっていく。
やがて個として始まったものが、全体へ花開いていく。

私はそれを、全体意識へ向かう宇宙の美しきドラマ、壮大で偉大なる運動として見ている。

だが、先程言ったもう一つの方向もある。

世界をどこまでも広げていくのではなく、世界が現れることそのものから離れていく方向だ。

それは、世界を恐れ憎んでいるからではない。それは、世界が始まる前も、その途中でも、たとえ世界が終わっても、変わらずにある自己を求めて、愛してやまないからだ。

この壮大な運動そのものは偉大だ。

創造も維持も破壊も、生も死も、出会いも別れも、個も全体も偉大だ。何度も形を変えながら続いていく、この途方もない運動そのものの偉大さ。その背景にある原初の原因体に惹かれた、あるいは、呼ばれたと言ってもいい。

そうしてそのある者は、純粋意識から、その意識さえ現れる以前へ溶けていく。

そこには、終わらせなければならない物語そのものがない。

一方は、個から全体へ。もう一方は、現れそのものの彼方へ。

まだ宇宙を味わいたいものには、宇宙がある。

もう宇宙さえ必要としないものには、その先がある。

だとしたら、宇宙は絶望的な呪いどころか、いたれり尽くせりの、ギフト、プレゼントとも言える。

呪いの向こう側

ここまで来ると、最初に見えていた「呪い」の景色が少し変わってくるのに気づいたかもしれない。

星が生まれ、燃え尽きる。その残骸から別の星が生まれる。木が倒れ、土へ還り、その土から別の生命が育つ。

一人の人間が残した言葉や影響が、全体への波紋となり、誰かを高め、また誰かを低め、バランスをとっていく。
たとえ本人が亡くなっても、会ったこともない誰かの中で生きる。

誰かの恐れが別の誰かを傷つけ、その傷が長い時間をかけて、まだ見ぬ誰かを理解する力へ変わることさえある。
つまり、呪いは祝福であり、祝福は呪いであり、どちらも、陰と陽で配合されたギフトだ。

ここでようやく、維持という言葉の意味も変わってくる。

維持とは、同じものを闇雲にご都合で、必死に保存することではなかったのだ。

変わることを許しながら、それでも何一つ全体の外へ捨てないことだったのだ。

聖者も賢者も、破壊者も愚者も、まったく無名のまま生まれ、誰にも知られず死んでいった人も。

生まれた星も、崩れた星も。うまくいったものも、失敗したものも。誰かを救った影響も、誰かを傷つけた影響も。

そのすべてが別の何かへ触れ、その後の世界をほんの少し変えている。

まったく何にも触れず、何にも影響せず、最初から存在しなかったのと同じものなど、あるのだろうか。

もし、それを自己保存と呼ぶなら私はもう一つ、別の名前でも呼びたい。

愛だ。

醜いものも、痛いものも、途中で壊れたものも。生まれてしまった以上、世界の外へ捨てることなく、壊し、混ぜ、別の何かへ変えながら運び続ける。

だから、時間がかかる。

ある人の中で始まったものが、その人の人生では終わらないことさえある。ある時代に生まれた痛みが、名前も姿も失いながら人から人へ渡り、まったく別の時代でようやく違うものへ変わることもある。

私たちはその途中だけを見て「なぜ終わらない」と思う。

宇宙は、途方もない遠回りをする。星を作り、生命を作り、私と私以外を作り、出会わせ、別れさせ、忘れさせ、また思い出させる。

呪いだと思っていたものの中に、祝福がある。祝福だと思っていたものの中に、呪いがある。

そのどこを切り取って、呪いと呼べばいいのだろう。どこからを、祝福と呼べばいいのだろう。

マグロを漁師が切り分ければ、様々な部位にそれぞれ名前がつくが、本当はどこを切り取ってもマグロはマグロだ。

宇宙はノロい。あまりにもノロい。

一度でも自分の中に現れたものを、ひとつ残らず愛してしまう。

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この記事を書いた人

パラトゥリクス管理人。真理探究、悟り、意識について書いています。

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