問い
禅や悟りの話を聞いていると、一度認識が完全に落ち、そこから認識が立ち上がる様相を見ることを、大きな悟りの一つとして語る人がいます。全くの無から認識が戻り、自我が世界を構成して意味を持たせる瞬間を見る。
そのような体験がなければ、大悟とは言えないのでしょうか?
そもそも、そういう体験と大悟って同じものなの?
応答
私の見解では、そのような体験がなければ大悟とは言えない、ということはありません。そして、その体験と「大悟そのもの」は別のものです。
「一度認識が完全に落ち、そこから認識が立ち上がる様相を見ること」
↑これは正確には、認識以前の何かが、そもそもすでにあるからこそ、「認識する」ことが可能になっています。
認識が落ちたあとに、新しく認識以前の何かが誕生するわけじゃなくて、認識以前から「認識」が生じているのです。
つまり、認識があろうと、落ちようと、認識以前は変わらずあります。
だから「認識が立ち上がる様相を見る」というより、見る、見ない、それ以前の「非行為性」「不変性」がずっと真の自己なんです。
ただ、ここでいう「不変」というのは、永遠に存在し続ける何かがある、という意味じゃなく「有る」「無い」という区別そのものが生じる以前のことです。
このサイトでいう、真我、真の我という言葉は「変化する自己、自我」と区別するため、その何かを便宜上そう呼んでいるだけです。
禅の坐禅、結跏趺坐、ヨガの瞑想、それからキリスト教の黙想など、形はさまざまですが、そうした修練を通して、思考や想念よりも手前にある「存在性」が明らかになることがあります。
「存在性」というのは、簡単に言うと「私はいる」「私は存在している」という、考える前からある感覚です。
「一度認識が完全に落ち、そこから認識が立ち上がる様相を見ること」
これは、「存在性」から想念や思考、すべての「動き」が生じていく、その入り口を見ることでもあります。ただし、その「存在性」そのものも、ここで言う認識以前から生じています。
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なぜあなたは、自分が存在していることを「自分は存在している」と分かるのでしょう?
どういう仕組みで、それが分かるのか?
それは、存在している、いる感じがする、いる、在る、からですね。
で、なぜそれがわかるの?って話です。
ここにいま私がティッシュで作った「雪だるま風」の人形があります。
目も書いて口もつけましょう。
さて、その人形はここに存在しています。そこにいるのだから「存在」はしています。しかし、人形には「私は存在する」という自覚はありませんね。
思考がないからでしょうか?それとも、心がついてないからでしょうか?
では、なぜあなたは、たとえ無思考になっても、「私は存在している」と感じているのか。
たとえば、何かに完全に集中してるとき、何かに真剣に見入っているとき、頭の中の言葉がほとんど止まっている瞬間がありますね。
その時に「私は存在している、私は存在している」と頭の中で確認し続けているわけではありませんよね?それでも、存在そのものが消えたわけじゃない。
じゃあ、その「分かっている」はどこから来るのか?何をもとにして「私は存在している」ということが成り立っているのか?これは実に繊細で、微細な領域の話です。
そういうことを見ていくために、さっき挙げた修練などがあるわけです。
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そして、「私」という感覚にとどまることで、何が本当で、何が錯覚だったのかを次第に見抜けるようになるのはなぜでしょうか?
それは「私」が立ち上がる以前に、何かがあるからです。
それをここでは便宜上「意識」と呼んでいます。
私はもし、小悟、中悟という文脈を使うなら、こうした「意識」と「気づき」の深まりを、便宜上、「同一化の溶解」とか「浄化」または「気づきの力が増える過程」という表現をしています。
「これも違うのか」
「あれも違うのか」
と、今まで自分だと思っていたものが次々に明らかになっていく感じです。
得た知識は変化します。ところが意識の理解は、知識ではなく「直接的な理解」です。
たとえば、ある小説に「田中さん」という主人公が出てきたとしましょう。文章を読みながら、どんな顔で、どんな声で、どんなふうに笑う人なんだろうと、いくらでも想像することはできます。でも、それはどこまでいっても「田中さんについて知っている」だけです。
しかし、もしあなた自身が田中さん本人だったら、「田中さんって、本当はどんな人なんだろう?」と外から想像する必要はありませんよね。
本人だからです。
意識について直接理解するというのも、これに近いんです。
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それで、大悟に関していうならば、修練や自己探究によって、「小悟→中悟→大悟手前」までは進んでいくことができますが、「大悟そのもの」は、その流れを積み重ねた先にある完成形ではありません。
例えるなら、あなたは夢を見ています。
ある瞬間夢の中で「あ、ここ夢だ」と気づきます。夢ははじめのうち楽しい夢でした。ところが、ある時、シリアスな夢に内容が変化していきます。
あなたは「ちょっとしんどくなってきたな。そろそろ目を覚ますか」と思い立ちます。
ここで、あらゆることを試します。「おーい、寝ている自分よ、起きろ!!」と夢の中のあなたは大声で叫ぶかもしれないし、湖の中に飛び込んだり、身体を思いっきり動かすかもしれないし、まあさまざまな刺激を与えます。
こうやっているうちに、寝ている本人にも少しずつ(あー・・起きなきゃ・・でも睡魔が〜むにゃむにゃ・・ZZZZZ)と、ある種の覚醒の準備が整ってきます。
私の見解では、このあたりが「見性」からの「小悟→中悟→大悟手前まで」の過程へ入っていく流れだと見ています。
ところが、寝ているあなたがいざ「はっ!?」と目覚めた瞬間の「大悟そのもの」は、前後の文脈と関係なしに起きます。言うならば、「目が覚めるという運動そのものが、目を覚まさせた」といった感じになります。
つまり、目覚めるまでは目覚めるために行うあらゆることがそのまま目覚めを促す運動として成り立ちます。
ところが、いざ目覚めると「大悟そのもの」は、
「夢」自身からすれば、完全な「時間軸や、条件に依らない不可思議な反転」だったということが明らかになります。
聖、俗。
探究、達成。
霊性、物質。
私、世界。
私、私以外。
そうした両側を見ていた枠そのものが消えるからです。
そのため「目覚めそのもの」は真理探究をしたことのない人でも、理由もなく、突然起きる可能性もあるにはあるのです。
また、「探究は努力を積み重ねれば、その先で必ず起きるというものでもない」ということも、こうした事情から言えてしまうのです。
小悟、中悟、大悟という言葉の枠そのものが消えるからです。
「聖と俗が一つになる」ということとも違います。
その場合、「聖と俗が一つになった」と知り、それを感じている主体がまだ残っています。その区別も、それを統合したと認識する者も「大悟そのもの」の中では成立しません。
だから、「認識が完全に落ちた体験をした者が大悟した」としても、それを見た「私」とまだ同一化したまま、
「私は無を体験した」
「世界が作られる瞬間を見た」
と所有するならば、それも認識の中で起きた、時間軸の夢の中の一つの体験です。
どれだけ特別な体験でも「私はあの時こういう体験をした」と言えるなら、そこにはまだ「体験した者」と「体験」があります。
ところが、大悟そのものでは、体験した者、体験、悟りという区別そのものが成立しません。
とはいえ、「小悟や中悟の過程における体験」を含めた、覚醒の準備期間は無駄なのか?というと、全然そうじゃありません。
ここは誤解されやすいところですが、探究において、一瞥体験や神秘体験に意味がないという話でもないのです。そういうものも、「神秘体験を目指す」となると方向がずれて遠回りになってしまいますし「〇〇の体験をした。これがゴールだ」と体験者に同一化してしまうことがあるので、慎重に扱われがちですが、
はからずとも起きてしまうなら、それはそれでいいし、通るなら通っておいた方がいいっちゃ、いいんです。
なぜか?
先ほどの夢の例えで言うと、主人公はまず「あ、ここ夢だ」と気づきました。
ときどき「なぜ神はすべての者を無限のパワーで一気に目覚めさせないのか」と言う話もありますが、
想像してみてください。
もし、完全に夢の中に没頭していて、いきなり、というか無理やり誰かに強引に揺さぶられて起こされるとします。
そのようにいきなり大きな反転が起きると、それまでの自己認識や世界観との落差が大きすぎて、夢の中の主人公にとっては精神的に混乱することもあるんです。
実際、瞑想や修行の過程で強い知覚変容や混乱が起きる例もありますし、禅でいう「魔境」のように、途中で現れるさまざまな精神的、心身的混乱や体験に呑み込まれてしまうこともあります。
そういう意味で、一瞥体験や神秘体験も含めて、段階を踏みながら慌てず丁寧に進んでいくことにはちゃんと意義があります。
また大悟付近では、理屈を超えた大いなる何かに心を開かざるを得ないのも、そういった理由からです。
目覚めるための運動まではできても、大悟そのものは自力で起こせるものではないから。数学的な「これだけ努力すれば、これだけ成果がある」という公式が成立しないから。
なので、沈黙がいちばん近いそれの「非言語伝達」になります。沈黙は理屈を超え、公式を超え、目覚めのニュアンスを夢の中で伝えられるからです。
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うろ覚えですが、禅の有名な公案集『無門関』に、「南泉斬猫」という話があります。
ある寺で、東西の僧たちが一匹の猫をめぐって言い争っていました。
そこへ南泉という禅僧がやってきて、猫をつかまえ、僧たちに問いかけます。ところが誰も答えることができず、南泉はその猫を斬ってしまいます。
そのあと、外へ出ていた弟子の趙州が寺に戻ってきます。南泉がさっきの出来事を話すと、趙州は何も説明せず、履いていた草履を脱いで頭の上に乗せ、そのまま黙って出ていきました。それを見た南泉は、「もしお前があの場にいたなら、猫を救えただろう」と言います。
この話を教訓や道徳話として捉えれば、まったく意味不明でしょう。不可思議でしょう。掴めないでしょう。
てか今の感覚だと普通にコンプラに引っかかる話ですね。
でも、そういうことなんです。
つまり、これは夢の世界の理屈の流れを断ち切って瞬間的に「 」を与えているのです。
それも打算や作為ではなく、自然発生的に起きたわけです。もちろん私の見解ですが。
私には、ときどき世界そのものが驚愕的な巨大なシュールレアリズム演劇みたいに見えることがありますよ。
笑。だいぶ話が飛んでしまいましたがそんな感じです。


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