神は、なぜ私たちを眠らせるのか?

問い

もし大本の真の状態が素晴らしく自由ならなぜここまで苦しみや混沌が起こって身体やたくさんの思考と同一化するのでしょうか。なぜ、わざわざ本当の自分を忘れて苦しんで、そこから長い時間をかけて探して、またわざわざ思い出すという厄介な流れがあるのか。

最初から目覚めたまま自由ではいけなかったのか。

それに、神がいるなら、どうしてもっと直接こちらを目覚めさせてくれないのでしょう。

神は、なぜ私たちを眠らせると思いますか?


応答

厄介。そう言いたくなるのもわかります。その言葉はもっともだと思います。

この問いに対して、完全に私たち、「心」が納得できる説明はこの世にありませんが、あなたが神、本性(呼び名はたくさんありますが)を想う時間が日常の中で1秒以上でもあるならそれは、真理探究の観点から見ればとても重要なことです。

私は世界は必ず「苦しみ」に満ちていると単純に言うよりも、短期的に見れば「苦しみ」に見えやすくなることが多く、構造上、長く時間がかかるシステムではあるが、長い目で見れば苦しみはやがて苦しみからの解放に向かうと見ています。

問題は私たちはそう聞いても、短期的にはそれがそう見えなく、証拠が掴めなく「信じるか、信じないか論」になってしまうことです。

また、神はいつでも待っているが「こっちにきなさい、それをしなさい、それをやめなさい」と、人間の親のように指示を出さないというところです。

神は「子供が夢中になって遊んでいる」のを無条件で見守っている感じです。よく言えば、いつでもここにいるからこそなせる技と言えばいいでしょうか。

問題は眠りから目覚めようと決意が起こったとしても、「プロセスや道のり」が避けられないことと、それをより短縮、遠回りをより防ぐためにさまざまな教えや、伝統や、体系、ワークがあるのですが、短縮したらした分も「負荷」「浄化的苦難」「レッスン」が出現することです。筋トレに例えると、3年かけてムキムキになるより、3ヶ月でムキムキになろうとしたらやはり負荷が強くかかることと似ています。

それから、そのプロセスやワークにも落とし穴があります。

あくまで探究のプロセス、ワークにしてもそれは手段であり過程でしかありません。それはゴールではないということですね。

ところが、それ自体に執着してしまうこともよくあります。じゃあワークはやらない方がいいかというと、

やった方がいい場合がかなりあります。

こう書いていくと、いかに探究の道がケースバイケースで、個によって今何が必要かが全然違うっていうのがお分かりいただけるかと思います。また、同じ個でも、人生の時期やプロセスの段階によってそのとき必要なものが変わってくるので、まさにあなたのいうとおり「厄介な流れ」と言いたくなりますね。

それでも一つ言えることは、心はちゃんと上手くできています。一粒の種でも、蒔いて放っておけばいずれはちゃんと森になるようなものです。そして、神はそれを知っているから口出さないかのようです。

心、精神というものは「自己愛」を主軸に成り立っています。

あなたが「あの人やばい、信じられない。頭おかしい」と距離を置きたくなるその人も、あなたと価値観は違えど「自己愛」という共通項で動いています。

たとえば「自分が嫌い、自分を信じられない、自己虐待」の最中でも「自己愛」がゼロになることはこの世界でできません。「この苦しみから抜けたい」「少しでも楽になりたい」「安息へ向かう」という動きそのものにも、すでに自己愛があります。生きとし生けるものがなくせないものはやはり「希望」だからです。

つまり、「世界、心」が動く根本理由は、息ある限りなくせない、なくならない「自己愛」と「希望」があるからですね。

その視点から言えば、この世界が厄介極まりない詐欺と欺瞞の悪徳ワールドだけである、という見方から少し離れて見られませんか?

とはいえ、「心の作り出す幻想」からどうにか解放しようと懸命に注意深い気づきの修練を行うような時期には、「幻想は悪」とか「世界という変化するものや、エゴに騙されてはならない」と注意深さを養う時期には、ある意味それはそれで正当で間違ってもいないのですが、実際、世界や神(という言葉を使うならば)は、心の捉え方次第でどのようにも映るでしょう。

心は、必要なら求め、必要ならやがて飽きるようにできています。

飽きるというのはここでは「同一化せずに対象として明らかにして見守れる立場」のことです。

そうなると、何かにただ反応して動くというより、自分が何を選ぶのかも少しずつ見えるようになります。

ここで、表面的に自由意志が尊重されています。なので、大いなる流れを信頼して明け渡すとしても、同時に、自身の自由意志や選択や関心の向きについて考えることをおざなりにするという意味でもないのです。

自分はやるだけやった、あとの結果はもう天に任せる。起きることには意味があると信頼する。この知恵はいわゆる一般常識から見ても取り入れやすいと思います。

神に対して、個を子供に例えると、

子供は、ずっと同じものに夢中なままではいられないということです。

子供が「夢中になっているもの」を、神はすぐには取り上げません。

子供が「神を叫んで、泣いて」も、夢中になっているものを握ったままなら「神はまだ見守ります」

ある時子供が「夢中になっているものが心からポトっと落ちた瞬間」、手放しが起きたとき、

神は子供を抱き上げます。子供から荷物が落ち、軽くなったからです。

その時子供は、何かに抱きしめられていることを心の底でキャッチします。

何か「一致したような」「恐れなくていい」という感覚。

すると、方向は「夢中」から、「その夢が現れている源」へ戻ろうと向きが変わります。やがて、神は常に一緒であり、最初から一度も離れていなかったことを知ります。1

私は、この世界は「リーラだから」「神の遊びだから」といった表現は宇宙のこの時代にはあんまり馴染まない気もします。結構全体的にきつい時代だからです。でもまあそう表現するしかないよね、と感じますが。

ですが、それは説明というより名前を付けているだけです。『神の遊び』という表現のポイントは、ライトな世界観でもかなりシリアスな世界観でも、VR(バーチャルリアリティ)のように、実際のあなたの本性は「真の状態のまま一切の影響がない」という点です。

影響を受けているのは個として現れている側で、本性そのものは一切の影響を受けません。

神は、なぜ私たちを眠らせるのか?

「なぜ」を突き詰めていくと、最後には言葉が届かなくなります。

ただ、一つだけ言えることがあります。

眠っているように見えるのは、個です。

神は一度も眠っていません。

探しているのも、見つけるのも、実現するのも個です。そう見えます。

しかし、神を「真理そのもの」と表現するなら、そこから見れば、そのすべてが一つの現れです。

だから「なぜ眠らせたのか」という問いは、目覚めそのものにはありません。

答えが見つかったから問いが無いのではなく、問いと答えの分離がないこと自体が、直接的な答えなんです。

神と子供がひとつのとき、区別がないとき、それはもうそれ以上表現する余地がないんです。

それでも、あなたのその問いはとても大切です。あなたのポイントはおそらくここだと思います。

「神の計画や流れに、個として『やります、参加します』と自分の意思で契約したわけでもないのに、なぜ勝手に始まったのか?」

重要なのは、問いが流出する以前の存在を知ることです。

  1. ラーマクリシュナは、子供がおもちゃに夢中になっているあいだ母親は料理を続け、子供がおもちゃを放り出して母親を求めて泣くと、母親が料理の手を止めて子供を抱き上げる、というたとえを語っています。 ↩︎
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この記事を書いた人

パラトゥリクス管理人。真理探究、悟り、意識について書いています。

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