明け渡しってなに?具体的に何をするの?

問い

「明け渡しが大切」とよく聞きますが、なぜ大切なのでしょうか。

明け渡すために何をすればいいのでしょうか。

全部何もかも宇宙や天に任せると言われても、自分は仕事も生活の問題もあります。ちゃんと考えてから動かなければならないこともあります。

明け渡しは欲望や執着をなくすこととは違うのか。すでに嫌なことが起きて苦しんでいる最中にも、明け渡すことはできますか?

応答

もちろんです。

明け渡しとは自分を縛ってきたものから自由になっていくことだからです。

あなたは誰かに自分の何かをあげた時、なぜか自分まで気分が良くなった経験はありませんか?

明け渡しも不思議なもので、あげたはずなのに増えるものがあります。

たとえば自由さ、生命力、ゆるみ、こぼれる微笑みとか。

私たちは自分が握っているものをよく見ると、他人からどう思われるか。成功するか失敗するか。この関係は続くのか終わるのかなど、まだ分からないことまで先に分かろう、確定させようとする動きが起きています。

なぜ分かりたいのか?分かれば安心できてくつろげるからです。

その安心を追うためにグルグル、モヤモヤすることに使っていた時間や力が減るぶん、シンプルに目の前で起きていることをただ見られるようになります。

結果ばかり見ていた複雑な想念の世界の影響が弱まれば、身体や心の硬直もゆるみ、今できることを冷静に判断しやすくなる。

そのうえで、「これをやりたい」「これやりたくない」という気持ちや、腹を決める力も自然に出てくることがあります。

そして日常で嫌なことが起きた時には、「逆に自分が何をそこまで大切に握っていたのか」を知るチャンスにもなります。

だから私は明け渡しは生きる活力にも、真理探究にも密接に関係していると思っています。

では、一体何をどう明け渡すのか?

初めの頃と、その先と、かなり深く入ったところでは少し様子が違うのでそれぞれみてみましょう。

明け渡しの初期

最初は、まず。

自分が「これは私のものだ」と握っているものを大いなる何か(呼び名は何でもいいですよ)へ少しずつ差し出してみます。

言ってしまえば「これは自分のものだ」と守っているところから、

「そもそも初めから貰ったものだし、いいよ、あげる」という方向へ向かうことです。

私は「気づき」という言葉をよく使いますが、ここでも気づくことは大切になります。

長いあいだ誰にも知られず、どこかでひっそり行われていたことがある日ニュースになって公の場へ出ると、その日に全部が全部解決するわけじゃないにしても、それ以前とまったく同じようには続けにくくなりますよね?

それまで隠れていたものが、気づかれたことによって明るみに出たからです。

自分の中の「私のもの」も、これと少し似ています。

瞑想や内観をやる流れの人は、そこで気づいていくチャンスがありますし、日常の体験を通して気づいていく人もいます。

人の数だけ、何に「私のもの」がつくかや濃度はかなり違います。

たとえば行きつけのお店でいつも座っている席を誰かに取られると「私のものなのに!」が現れます。笑

そこに気づく。それだけで日常は気づきの道場に変わります。

あと自分がずっと何年も好きだった歌手を、最近知ったばかりの人がものすごい熱量で語っていると「いや、私の方が前から知ってるけど。この新参者め」と出てくる場合もあります。笑

ここには「私のものとしての、アイデンティティとの同一化」があります。

あなたが明け渡しを深めたいという場合、たとえそういう小さなことでも、そこに気づいていくことが大切になります。中にはあまり見たくないものもあります。長いあいだそれに支えられてきたもの、昔そこを傷つけられたから守るようになったものなど。

でも「私はこれにめちゃくちゃ執着してる。ダメだ・・」とやる必要は全然ありません。戦わなくていいんです。

見るだけ。

「ああ、ここは私のものなんだな」「ここだけはこうなってほしいんだな」「任せると言いながら、ここは任せたくないところなんだね」

気づくだけ。

今まで暗いところで握っていたものが、明るいところへ出てきた。それだけで前とは違います。

明け渡しの中盤

で、さらに進むと、今度は大いなる何かに「結果をあげる」方向に深まります。

人生の大きいテーマ、恋愛や仕事や人間関係や家族や健康なんかの濃い対象は「はい、どうぞ」と簡単には手渡せませんね。

だから結果をあげます。

仕事でいうなら、仕事という行為は起こします。考えたり計画もするし、実際に動きます。だけど成功するか、うまくいくかどうかの結果は、大いなる何かにあげる。

恋愛で言うなら誰かを好きになって、相手も自分を好きになるかどうか気になることは起こる。それで会いたければ会うし、気が引けるなら会わない。言いたければ言う。控えるなら控える。つまりやれることはやる。やれないことはやらない。でも、その結果は大いなる何かにあげる。

ここで、ポイントは願いや想いや気持ちや行為まで消そうとしなくていいんです。それも自然に起きていることだから。

ただ、その結果まで「私のもの」として握らないってことです。

ちなみに「結果を捧げれば、願いが叶いやすいらしい。よし、それなら捧げよう」というのは、この場合結果を握っていますね。笑 結果を考えないようにしようとするのも、実はこれと似ています。

1回、本当に結果をあげてみるわけです。ある程度それに慣れてくると「何かを得るためにやる」から少し離れて、自然な行為そのものが戻ってきます。

子供の頃、私たちが熱中していた行為って、それが未来に何の役に立つかなんて考えていませんでしたね。

子供が目を輝かせて嬉々として何かを作ったり絵を描いたりしています。

そこに通りがかりの大人が近づいて「なんのためにやってるの?」「何かメリットは?」「効率悪くないそれ?」「これみんなに見せたらどう思われると思う?」と言っていたら、かなり嫌な光景ですね。

私たちは、結果ばかり見ているときかなりの部分が「未来」に持っていかれています。その未来から少し離れるだけでも、今やっていることへ力が戻ってきます。

未来は未知です。

未知というと怖いもの。できれば避けたいものとして見てしまいがちです。

でも、結果を明け渡してその未知を残しておくと何も欲しくなくなって無気力になるどころか、むしろ今ここに使える力が戻ってくることがあります。

私は、これが明け渡しの面白いところだと思っています。

結果が分からないという、その「未知さ」を敵ではなく味方にする。

私たちは、内容を完全に知っている大好きな物語を見終えたあと「記憶を消して、もう一度最初から見たい」と思うことがあります。先が分からないことは、不安だけではなく喜びもあるからです。

これは、すでに嫌なことが起きている場合も同じです。まずは気づく。認める。

その景色の中でできることをする。でもその結果は大いなる何かにあげる。

そして、ここから先の明け渡しは、ちょっとだけディープになっていきます。

明け渡しの終盤

こういう乗り物を想像してみてください。

大きな窓があって、目の前にはハンドル、足元にはアクセルがあります。

あなたがアクセルを踏むと、景色が前からやって来て目の前を通り、後ろへ消えていきます。

私たちは自分がアクセルを踏んで、未来へ進んでいると思っています。自分が選んで自分が決めたからこそ、ここまで来た今の自分がある、と。

ところが、ある時その乗り物を調べてみたらバッテリーが「空」だったらどうでしょう?

なんと乗り物はエンジンが動いていなかったわけです。それなのに景色はずっと流れています。

「あれ、自分が景色の中を進んでいたと思っていたけど、景色の方が来ていたのか?」

さらに妙なことに気づきます。流れているのは景色だけじゃありません。

昨日の自分はもう記憶になっています。身体も細胞も、考えていることも信念も興味も関心も常に変わります。

「こうしよう」と決めた意志だって、その瞬間から過去へ流れていきます。

そうです。ハンドルを握っていた者も、同じ流れの中にいた。

初めは「これは私のものだから、あげてみよう」と思っていた。次は「結果はあげよう。それでも行為しよう」となった。ここまででも明け渡しとしてはだいぶ深いところまで来ています。

しかし、まだ明け渡している者がいます。

「私が明け渡している」

でも、その私も流れているわけです。笑

こうなってくると問題は欲望や執着があるかどうかじゃなくなってきます。

欲しいものは欲しい。嫌なものは嫌。ただ、そこに以前のような「これは私だ」「これは私のものだ」という重さがなくなっていきます。

個人はそのあとも世界の中で生きます。それでも、その動き全部を個人が重荷として抱えている感じは薄くなっていきます。

なぜなら、個人として動いているのに同時に全体の動きでもあるからです。

善行も徳も同じです。最初は「良いことをしよう」「徳を積もう」と思ってやります。でも深く入っていくと、どんな善きことでも「これは私がやった」「これは私の善きものだ」とレッテルをつけていたことまで見えてきます。

例えばヒーローが、インタビューで「これは僕一人の力じゃありません。みんなの力です!」と言うと、なぜかこっちまで気持ちいいし納得しますよね。反対に、口ではそう言いながら、本当は「全部俺様の力だ。はっはっは」と思っていたことが分かったら、急に嫌な感じがしますね。笑

「私の手柄だ、私の力だ、私のものだ」を全面に出されると、それがたとえどう見ても善いことだったとしても、なぜか嫌な感じがする。

そして自分の中を見ても「明け渡したつもりだったけど、めちゃくちゃ私が残ってたな」なんてこともあります。

これは深まる過程で全然普通にあります。

むしろそうやって明け渡しは、気づきと一緒に進んでいきます。

そして最後には「そもそも誰のものだったんだろう」と言う、その「私」そのものを見るというところまで来ます。

なぜか?

あなたは元々、何ひとつ持っていませんでした。

現象として、ここに現れて初めて「私のもの」に触れたのです。

ここには意識があり、認識があり、身体があり、名前を与えられ、人と出会い、記憶があり、いろいろなものを受け取っていきます。

いつの間にかそこへ「私のもの」と名前がついていった。

しかし、最終的には名前をつけていた「私」まで、その同じ流れの中にいたことが明らかになります。

明け渡しとは「私のもの」を捨てていく悲劇じゃなく、「私のもの」がだんだん外れていきどれだけ捨てても捨てきれない本性へ戻っていく安息劇に近いのかもしれません。

というわけで、この明け渡しというテーマは大切なので今後もまた取り上げたいと思います。

最後まで読んでくれて、見てくれて、ありがとうございました。

ところで、

その「読む」「見る」「考える」「分かった」「分からない」

・・そして、それらに気づいたという現象さえも。

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この記事を書いた人

パラトゥリクス管理人。真理探究、悟り、意識について書いています。

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