真理探究って、人生をよくするためのものなのか

ようこそ、パラトゥリクスへ。

たとえば探究者の方から、「瞑想とは何ですか」「真我とは何ですか」「至福とは何ですか」「意識や気づき、明け渡し、非二元とは何ですか」と聞かれたとします。

私は、このようなテーマについて聞かれると、相手の関心によって内容は変わりますが、何かしら言葉が溢れてくることが多いです。

でも、「どう生きるべきなのか?」「どうしたら人生をコントロールしたり、展開を変えられるのか?」と問われると、少し黙ってしまう。純粋に沈黙へ徹するという意味じゃなくて。

「どう生きるべきか」という問いは、個人にとって大切な問いです。ただ、真我探究そのものとは少し違う場所に立っているかもしれない。今回はそんな話です。

真理探究と人生改革

「絶対」「絶対意識」からすれば、人生を認識している者さえ超越されています。

これは人生や生命活動を否定する話ではなく、「絶対」そのものを描写しているだけです。

真理探究や霊性探究は、もともと人生を整えたり、精神をより良く変えたりするためだけに始まった話ではなかったと私は思います。

そこにあったのは、「自己とは何か」「世界とは何か」「存在とは何か」「生死を超えるものはあるのか」という問いでした。個人の幸福な人生を作ることよりも、個人や人生そのものを突き破っていくような知識だったはずです。

一方で、日常を生きている人が知りたいのは、人生の正体よりも、まず目の前の苦しみをどうしたらいいのかということです。仕事が苦しい。人間関係がうまくいかない。愛されたい。不安を消したい。人生を良く変えたい。

そういう人へ、「真のあなたは心でも身体でもない」「個人は想念の中にしか実在しない」「世界は夢のようなものである」と言っても、話が噛み合わないことがあります。

たとえば、水漏れで床がびしょ濡れになっている人が、雑巾と元栓の場所を聞いているのに、「そもそも、この家はあなたではありません」と答えられるようなものです。

言っていることが完全に間違っているわけじゃないけど、今それを聞いているんじゃないという話です。笑

自己知識が深まる過程で起きる見抜きが、精神的な平和や執着の減少につながることはあります。人生が良くなったように見える変化もあるかもしれません。

ただ、それが第一目標になると、悟れば幸福になれる、自己探究をすれば人生が整う、明け渡せば物事がうまくいく、非二元を理解すれば苦しみが消える、という方向へ移っていきます。

実際には、幸福な人物が完成したというより、人物を所有していた中心が薄れた、あるいは消滅したという方が近いのです。

個人の動きとは願望である

と、偉そうなことを言っていますが、私もまた強烈に人生を変えたかったし、自分の精神を変えようとしていました。

そんなときに、人生も個人も幻想だと言われても、「そんなことを知りたいわけではない。真理探究というから、人間として幸せになる真理が知りたいのに、なんてことを言うんだ」とキレたかもしれません。笑

私も最初は人生を変えたかった。不安を消したかった。シンプルに幸福になりたかった。

でも、あるとき、幸福になる方法よりも、「幸福を求めている私は誰なのか」という方へ関心が反転しました。

違う方向から入った人が、時間を経て、本来の自己への問いへ辿り着くこともある。だから、なにもかも悪いとも言えない。つまり、別に文句はない。笑

真理探究は「不幸」を超える道であると同時に、幸福さえも超える道です。人生改善が起きるかもしれないし、起きないかもしれない。人間や人生の枠組みそのものを超えていく方向の道なのだと思います。

幻想の中でどう生きるべきか

では、この世界が幻想だとしても、「幻想の中でどう生きるべきかという話には、ちゃんと意味があるでしょ」という問いには、「イエス」です。

人生の問題に対して「絶対意識」の視点を使っても、生活上の解決は生まれません。お腹が空けば食べるし、お金がなければ困る。受け入れられれば安心するし、拒まれれば傷つく。身体は老い、出会いも別れも起こります。

私も普段は、何をするべきか考え、人と関わり、生活します。

相対的には人生があるし、絶対的には人生を認識する者さえいない。この二つは同時にあります。

真理探究者は人生の幸福を目指してはいけないのか。世界の中で何を選ぶか、どう成功するか、どう愛されるかを考えてはいけないのか。そういう話ではありません。

それが個人の心にとって大きな関心事であるのは自然です。夢を見ていることが悪いわけでもありません。夢の中には夢の現実があり、その中でしか起きない愛や痛みもあります。

人生で起こることも、それを良い悪いと判断する心の動きも、ただ起こっていきます。

人生や世界は変化し続け、創造され、しばらく維持され、壊れて、また別のものが始まります。

人はいずれ、どこかで立ち止まることがあります。そのとき、まったく関心のなかったはずの、変わらないもの、不変や不滅、不動性に惹かれる可能性があります。

それでも残る「どう生きるべきなのか」

ここまで書いても、「結局、真理探究者はどう生きればいいのか」という問いは残ります。

すべての人に当てはまる、生き方の正解は分かりません。

あなたは、どうでしょうか。

あなたはなぜ、真理探究に興味を持ったのですか。その最初の動機と、いま求めているものは、同じでしょうか。

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この記事を書いた人

パラトゥリクス管理人。真理探究、悟り、意識について書いています。

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