真理探究者や霊性探究者はどう生きるべきなのか?
探究者から、瞑想とは何ですか、真我とは何ですか、至福とは何ですか、意識とは何ですか、気づきとは何ですか、明け渡しとは何ですか、と聞かれたなら、私は瞬時、ただただ、何かしらその人の自己知識の段階と、エゴとの同一化の圧力を嗅ぎ取り、言葉が自然に溢れると思う。
けど、「探究者はどう生きるべきなのか」と問われると、私は少し黙ってしまう。
もちろんそれは、純粋に沈黙する、という意味ではなく、である。
確かに、その問いは、とても大切な面もある。 同時に、真理探究そのものとは少し違う場所に立っている。
第一に、絶対意識からすれば、一切喝采が、「起きていない」のであるから、探究者も、どう生きるかという計画する想念も、人生も、世界も、「 」で始まり、「 」で終わるため、その問い自体が成立しない。
つまり、絶対的には「何もかもは超越されているため、世界に関する全て=非認識そのもの」なのである。
しかし、第二としては、そうだとはいえ、相対的には、幻想として、蜃気楼として、それは起きているし、それは幻想だとはいえ、その人の中では現実なのである。
そのため、「じゃあこの世界が夢だとしても、夢の中でどう生きるべきか論」は意味があるように感じられる気持ちもわからないでもないわけである。
なので、私も普段は日常会話において「どう生きるか論」を話し合うこともある。
けど、それはある種の「いち役割的機能」に過ぎない。
真理実現者はもはや、夢を夢だと認識する認識者さえ消滅している。
一見すると、普通の人間であり、世間的会話もするし、どう生きるか、何をするべきか、悩み、考え、行為するように見えるかもしれない。
しかし、それは蜃気楼に過ぎないのだ。
あなたよ。
あなたは、何かの偶然やきっかけを持って、真理探究に惹かれて、実現を目指しているかもしれない、
しかし、真理の追求は「主体と対象」が、完全に消滅してしまう、絶対意識としての在り方に回帰するプロセスである。
真理探究を願望実現や、成功実現の領域にあるものだと勘違いしてはならない。
真理実現でいうところの「至福」とは──私も至福という単語をよく使うかもしれないが・・──いわゆる二元的、二局的、相対的な意味での「幸せ」ではなく、「幸せー不幸」という相対的ループからの超越、あるいは「幸せー不幸」を感じる体験者自身からの超越なのである。
なので、真理実現は人生をうまく回すための方法ではない。欲望をどう満たすか、人格をどう整えるか、社会の中でどう賢く振る舞うかという話でもなく、このプロセスは完全なる物語の終焉なのである。
あなたが本当に求めているものが解脱であるなら、車輪をどう楽しく回すかよりも、まず見るべきことがある。そもそも、誰がその車輪に乗っていると思っているのかということを。
じゃあ、「真理探究すると個人の人生が不幸になるのか?」というと、
「人生で何が起こるかは全て、起こることが、起こるべくして、起こり続ける。それを良い出来事、あるいは嫌な出来事と判断する心の動きさえ、起こるべくして、起きている」 と私は言う。
ただ起こる──それ以上でも、それ以下でもなく──起こりが、起こる
逆説的だが、私は、世界の中でどう生きるか。何を選ぶか。どう成功するか。どう愛されるか。どう評価されるか。これらを考えることが悪いと言いたいわけでは決してないのである。というか、それが個人の想念の普通の関心テーマだしね。
ただ、その問いに強く惹かれているうちは、まだ世界の夢の続きを見ている。何度もいうが悪いという話ではないけど、ただ、その関心が強いかぎり、探究はまだ個人の物語の中で続いている。
じゃあ、そういったことも含めて、どう生きればいいのか?をあえて言うなら、あえて答えるなら・・
パラトゥリクス的おすすめは「自己探究」「瞑想」「明け渡し」この三本の矢である
難解な話をしているようで、実に私の勧めはシンプルなものだ。
「自己探究」とは自己愛の追求でもある。
あとのすべては脚本次第である。その肉体は、その肉体として、意識の運動の海の中で独自に動いていく。心は心として反応し、身体は身体として行為し、人生は人生として流れ、喜怒哀楽が歯車のように回っていく。
そこには五元素と三グナの運動がある。ヴァーサナーがある。傾向があり、縁があり、因果があり、避けられない流れがある。
だから、いにしえから聖なる教えは、いつも同じ場所へ帰っていく。
全部を神に明け渡しなさい、と。
身体も、心も、人生も、成功も、失敗も、善も、悪も、愛も、怒りも、探究さえも。
そのすべてを、自分で抱え込むのをやめる。すべてを動かしているものへ返す。
そうしたとき、「どう生きるべきか」という問いは、根本から力を失っていく。
おそらく、どの賢者や聖者に聞いても、この問いを個人の人生相談として深く扱うことは少ないだろう。
祈りなさい。マントラを唱えなさい。神に委ねなさい。 自己を問え。沈黙へ戻りなさい。
言葉は違っても、指し示す方向はだいたい同じである。
あなたが目を覚ましたなら、どう生きるべきかを気にしていた私も、その私が生きていると思っていた世界も、夢の中の出来事にすぎなかったと知るだろう。
それでも、私たちは問う。それが自己探究である。
利己的に生きるべきなのか。利他的に生きるべきなのか。人を愛すべきなのか。傷つけずに生きるべきなのか。
確かに、人を傷つけずに生きられたら、それが何よりである。だが、この世界で、誰も傷つけずに生きることはできない。言葉はすれ違う。思いは必ずしも届かない。善意はときに誤解され。無抵抗の沈黙でさえ、誰かを傷つけることがある。近づいてもときに傷つけ、離れてもときに傷つける。
自己探究の進展の最果てに得るものは何か
人間も世界も完璧を求めて永遠に運動し続ける。しかし、人間として生きるかぎり、また世界がどれほど進歩しようとも、完璧に至り、それを永遠に維持することも、完全に清らかな行為なども存在しない。
確かに、聖母のように、すべてを愛し、すべてを赦して生きられたら、それが何よりである。けれど、心は愛そのものにはなれない。心は赦しそのものにもなれない。
心は揺れる。比べる。期待する。傷つく。恐れる。見返りを求める。愛しているつもりで、所有しようとする。それがエゴであり、個人というシステム構造である。
だから、心に、世界に、個の私に完全な愛を求めると、苦しくなる。
では、完璧も、愛もないのか?あるとしたらどこにあるのか?
私は、真理そのものである「あなた」だけが、本当の意味での愛の在り方だと思っている。
そのあなたのことを私は「純粋意識」「全体意識」「絶対意識」とカテゴライズした。
さて、ここに身体があるとする。身体の中には無数の細胞がある。それぞれの細胞は、別々に存在し、別々に動いているように見える。しかし、身体という全体があるから、それらは生かされている。全体は、ひとつひとつの細胞を個別にえこひいきしない。それでも、すべてを含んでいる。すべての動きの基盤であり、すべてが起こる場である。
これは直接体験しないと、文章で読んでもなかなか伝わらないかもしれないが、 全体意識もこのような在り方同じである。その在り方を、私は愛と呼びたい。
愛を知りたいなら、愛ある人間になろうとするよりも、愛そのものへ退くしかない。
「どう生きるか?」愛を求めて生きる
「愛を実現するために、個から全体へ、やがて対立の滅した“ 絶対”へ」
あなたと世界が分かれていないと知ること。全体であること。そして、その全体さえ観照している絶対の領域まで退くこと。そのために、自己探究、瞑想、明け渡しがある。
愛する私がいるかぎり、そこにはまだ二元性がある。
「私が愛する。私が赦す。 私が受け入れる。 私が与える。」
その立場がどれほど美しく見えても、そこにはまだ微細な行為者が残っている。
真理探究者が見なければならないのは、どう愛するかではない。
愛そうとしている私は誰か。そこに戻ることである。
やがて、その問いさえ静かに落ちていく。
どこへ?

