真理探究者はどう生きるべきか

ようこそ、パラトゥリクスへ。

たとえば探究者の方から、このようなテーマの質問を受けたとします。

「瞑想」「真我」「至福」「意識」「気づき」「明け渡し」「非二元」とは何?って。

私は、このようなテーマについて聞かれたら相手自身の関心テーマによってもちろん内容は変わるでしょうが、瞬時に何かしら言葉が溢れてくることが多いです。

でも「どう生きるべきなのか?」や「どうしたら人生をコントロールしたり、展開を変えられるのか?」と問われると、私は少し黙ってしまう。純粋に沈黙に徹するという意味じゃなくて。

「どう生きるべきか」

確かにこの問いは個人にとって、とても大切な問いです。

だけど、同時に真我探究そのものとは少し違う場所に立っているかもしれない。今回はそんな話です。

この話に入る前にまず、大前提として真我や悟り探究者の究極のゴールである「絶対」「絶対意識」からすれば、人生という一切合切を認識している者さえ、超越している立場です。

「そこ」からすれば、探究者もどう生きるべきか問う者も計画、人生、世界の内容物に関して、「  」で始まり、「  」で終わるゆえ、その問い自体が成立しないわけです。

問いが成立しなければ、答えという枠組みも成立しません。

そのため、その問い自体を融かすかのような沈黙が発生してしまうのかもしれません。

で、ここで多くの人は誤解すると思います。

今のような「絶対」の立場を聞くと、なんだか虚しい言葉に聞こえるかもしれないってことです。

誤解しないでいただきたいのは「絶対」の描写は、決してニヒリズムや生命活動の否定、どう生きるかを模索する人情を否定しているわけではないということです。

「絶対+個人+人生」と組み合わせると、もしかしたら虚しく感じたり、否定されたように感じるかもしれない。でも、「絶対」オンリーの描写は、描写する者も受け取る者もなく、「絶対」オンリーなのです。

これは単純に、時間も空間も超越している「絶対」の、ありのままの描写です。

目次

真理探究は、いつから人生改革になったのか

この話が平行線になりやすい理由を、私はこんなふうに考えています。

真理探究や霊性探究は、そもそも古来より、人間的な精神活動を整えたり人生をより良く変えたりするために始まった話ではなかった、と。

そこにあったのは、「自己とは何か」「世界とは何か」「存在とは何か」「生死を超えるものはあるのか」という問いでした。

かなり切実で、個人の幸福な人生を作ることよりも、その個人や人生そのものを突き破っていくような知識だったはずです。

当然、それでは、ごく限られた者だけの知識になってしまいます。

でも日常を生きている人の多くが知りたいのは、人生そのものの正体よりも、「まず目の前の苦しみをどうしたらいいのか」ということだからです。

仕事が苦しい、人間関係がうまくいかない。愛されたい、不安を消したい人生を良く変えたいなど。

そういう関心の場所へ、「真のあなたは心でも、身体でもない」「あなたという個人は、想念の中にしか実在しない」「世界は夢のようなものである」と言われても、話が噛み合わないことがあります。

たとえば、水漏れで床がびしょ濡れになっている人が、雑巾と元栓の場所を聞いているのに、

「そもそも、この家はあなたではありません」と答えられるようなものです。言ってることが完全に間違っているわけじゃないけど、今それを聞いているんじゃないという話です(笑)

なんでこうなるのでしょう?

確かに、自己知識が深まり個としての精神の境界線が融けていくと、全体性の精神へ広がっていきます。

すると、人間的な精神活動や人生に苦しんでいる者に対して、無関係には見えなくなっていきます。

だから、苦を和らげる方向へも言葉が向かうのは自然かもしれません。

もしくは、自己知識が深まる過程で起きる見抜きが、精神的な平和や執着の減少などにつながり、現世的にも人生が良くなったように見える変化が、前面へ出るようになることはあるかもしれません。

でも、本来は付随的に起きていたそういったものが、いつの間にか第一目標になると話が変わります。

悟れば幸福になれる。自己探究をすれば人生が整う。明け渡せば物事がうまくいく。非二元を理解すれば、不幸や苦しみが消える。そういう形へ、だんだんと移っていきます。

やはり、何かに焦っていない感じとか、落ち着きとか、気楽さとか、握りしめない感じとか、出る場合があるといえばあって、その姿だけを見れば、「この教えによって人格が完成したんだ」「幸福な人間になったんだ」と受け取られるのも、無理はありません。

実際には、その本人にとって、幸福な人物を完成させたという話ではなく、人物を所有していた中心が薄れた、あるいは消滅したという方が近いのです。

この二つは似て非なるものです。真我実現と、精神改革や人生改革は、必ずしもイコールではないからです。

しかし、自己探究そのものが、人々の精神変化や人生改革のためのものとして受け取られるようになったということはあると思います。

個人の動きとは願望である

と、偉そうなこと言ってますが、私もまた若い頃はとくに強烈に個としての精神を変えたかったし、人生を変えようと思っていました。

もし、そんな人生を変えたいときに、人生も個人も幻想だと言われても、そんなことを知りたいわけではない、と思ったかもしれません。

真理探究っていうから、人間として幸せになる真理が知りたいのに、なんて事言うんだとキレたかもしれません。笑

その頃、真我探究という意味での真理探究には興味がなかったわけですから。

個人の動きは願望や欲求のために動くことが自然というか当然のことです。

私も最初は人生を変えたかったり、不安を消したかったり、シンプルに幸福になりたかった。

で、実際に動いて、良くなるパターンもあったし、だからこそ、やっぱりそうなんだ、自分ももっとそうなろう、なれないのは自分がまだ未熟だからなんだ、となる。

それも、本当にそうだったパターンと、そういうことでもなかったパターンもあるからこそややこしいですね。

でも、私の場合あるとき願望や欲求よりも、自己知識や真我探究の道に関心を持つ流れに入ってしまいました。

そこから、不幸から幸福への変化の関心が消えたわけではないですが、それよりも幸福を求めている私は誰なのか、という方へ関心が反転したんです。

だから、そう考えると、違う方向から入った人が、時間を経て、あるとき本来の自己へ関心や、そう言った問いへ辿り着く可能性もあると感じています。

だから、なにもかも悪いとも言えない。

つまり、別に文句はない。笑

けど、一応改めていうならば真理探究は本当は「不幸」も超える道ではあるけど、幸福さえも超える道で、人生改善も起きるかもしれないし、起きないかもしれないけど、人生や人間の枠組みを超えていく方向の道なのかもしれないというお話です。

幻想の中でどう生きるべきか

相対的には、つまり生きる上で、人生の出来事や問題に対してのアプローチで、

「絶対意識」の視点を使っても、生活の面で特に解決は生まれません。

世界では、悲しみは悲しみとして起きるし、嬉しいことは嬉しいこととして起こります。

お腹が空けば食べるし、お金がなければ困るし、人に受け入れられたら安心するし、拒まれれば傷つくし、身体は老いる。出会いも別れも起こります。

そのため、「じゃあ、この世界が幻想だとしても、幻想の中でどう生きるべきか論は、ちゃんと意味があるでしょ」というのは、「イエス」です。

私も普段の日常会話では、「どう生きるか論」を話し合うこともあるし。

何をするべきか考え、人と関わったり生活をします。

ただ、それは、この世界の中で起きている流れのひとつであり、生命としての役割のひとつです。

相対的には、個人として現れているこの私にも性格があり癖があり気質があります。

意識の立場から見れば、それらはすべて蜃気楼のようなものですし、真我は、ずっと真我のままです。

絶対からしたら「真我の実現者」という者さえなく、「探究─実現」自体も成立していません。

夢を夢だと認識する認識者さえ、消滅しています。

つまり、相対的には人生があるし、絶対的には人生を認識する者さえない。

パラドックス。

それでも人生は起こり続ける

真理探究しても、個人の人生が幸せにならないのか。

真理探究者は、人生の幸福を目指してはいけないのか。

というと、そういう話ではありません。

私自身、個人としての人生で何が起こるかはすべて、世界を通して起こることが、起こるべくして、起こり続けると言うざるを得ません。

さらに、それを良い出来事、嫌な出来事と判断する心の動きさえ起こるべくして起きています。

ただ起こる──それ以上でも、それ以下でもなく──起こりが、起こる。

結局、私は、世界の中でどう生きるか何を選ぶか、どう成功するかどう愛されるか、どう評価されるかを考えることが悪いと言いたいわけではありません。それが個人の心にとって、最大の関心事であるのは至極自然です。

でも、その方向の問いだけに強く惹かれているあいだ、良い悪いではなく、想念という世界の夢の続きを見ているとも言えます。

夢を見ていることが悪いわけではありません。夢の中には夢の現実があり、その中でしか起きない愛や痛みもあります。

皮肉や悲観、冷笑じゃなく、人生や世界は、常に変化していくものであり、移り変わり続ける夢の中に、永遠に固定された何かはありません。

運動は起き続け、やがてすべては記憶の中の像へ変わっていきます。

創造され、しばらく維持され、壊れて、別のものが始まります。いいことも悪いこともです。

人はいずれ、どこかのタイミングで立ち止まることがあります。

そのとき、まったく関心のなかったはずの、変わらないもの、不変や不滅、不動性に惹かれる可能性があります。

どう生きるべきなのか

ここまで書いても、

「結局、真理探究者はどう生きればいいのか」

という問いは残ります。

すべての人に当てはまる生き方の正解は分かりません。

あなたは、どうでしょうか。

あなたはなぜ、真理探究に興味を持ったのですか。

その最初の動機と、いま求めているものは、

同じでしょうか。

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この記事を書いた人

パラトゥリクス管理人。

言葉になったものを置いています。

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