はじめに
悟り、目覚め、覚醒。真我実現、解放、光明。
あなたはこれまでの人生でこのようなキーワードに関心を持ったことはあるでしょうか。このサイトはそういっ真理の探究に強く関心がある方を対象にしていますが、
結局、上記に挙げたこれらは一体何のことを指しているのでしょうか?
この問いに対して、結論をいうと。
まず「悟り」とは、
「自分とは実は人間でも個人でもなく、姿形のない無限の意識である」という事実を、
「そのあなた自身として、自らを思い出す」ことを指します。
混乱しましたか?・・でもそれが悟りなんです。
さらに続けていきましょう。
「目覚め」と呼ばれているものとはなんなのか。これまた、悟りとは違うニュアンスですよね。
私の定義では、「目覚め」とは、文字どおり「夢から目覚めること」を指し示しています。
さて、夢とは何か?と言うと。
この世界。この現実、と言われているこの夢のことを指しています。個としての歴史、宇宙としての歴史、つまり、あなたの人生全体さえも指しています。
「この夢全体から目覚めること」それが、真理探究の文脈においての「目覚め」の定義です。
驚かれたでしょうか。あなたは私の荒唐無稽すぎるこの発言に、嘲笑するか全否定するか、あるいは一体何を言っているかさえ分からずに無反応かもしれない。すぐにこのページを閉じてしまうかもしれない。
それは実に普通の感覚であり、この世界の住民としては何も間違っていない反応です。
しかし、ここで少しだけ立ち止まってみてください。
もし、この現実が絶対的なものだとしたら、私たちはなぜ毎晩、それを完全に失っているのでしょうか。
悟りと目覚めは、言葉としてのニュアンスは違います。しかし、目覚めることで「世界の非存在」を直接知るという意味では深くつながっています。
さらに「目覚め」「覚醒」は、夢から目覚めるだけにとどまらず、個人との同一化システム、通称「自我システム」という眠りから完全に目覚めることでもあります。これを解放や、光明を得るなどとも言います。
つまり、悟りの道とは「自我(エゴシステム)や世界という幻想からの解放」を指しています。
そして「真我実現」とは、
この宇宙にはただ一なる意識だけがあり、
究極的には「私」とは、それすらも超えている存在であり、
表現不可能な「 」であると直接実現していくプロセスのことです。
真我というのは、概念を超えた、時間や空間領域を超えた、不変で無滅の全ての背後にある究極の自己を指しています。この真の自己を思い出し、確信し、それこそが主体となっていく。
このように見ていくと、悟りや目覚めや覚醒や解放や光明なども、全部同じ方向性のものを、別の角度や段階から表現している言葉だということがお分かりでしょう。
もちろんこう言われても、「???」となる方がほとんどだと思います。
そこでこの記事では、「悟り」を頭の理解ではなく、直接体験できるように、
あなた自身が毎日経験している、ある身近な現象をヒントにお伝えしていきます。
私たちは毎晩「3つの意識状態」を経験している
さて、あなたもきっと、次のようなサイクルを毎晩くり返しているはずです。
・目覚めている(起きている)状態
・夢を見ている状態
・夢も見ない熟睡の状態

この中で、「覚醒」と呼ばれているものを感覚的に理解してもらうために、注目すべきは「熟睡の状態」です。
面白いと思いませんか。言葉の表現がパラドックス(矛盾)しましたね。
個人にとって、熟睡とは文字どおり「眠っている」状態です。
しかし、真のあなたとしては熟睡時に「あらゆる想念世界の夢から目覚めて存在している」と私は言いたいわけです。
さて、あなたは毎晩眠りにつくと思いますが、
あなたは熟睡中には、空白でした。何もなかったはずです。「時間も空間も人生や世界や、あらゆる物語が消えていた」。 なのに、なぜ「私は寝ていた」と、わかるのでしょうか?
少しだけ考えてみてください。
そこでは、時間も空間も何もかもが消えていました。つまり、心や思考や、精神や肉体も消えていたわけです。
無我、無形、無意識、無認識だったのにもかかわらず、目が覚めると、なぜあなたは「私は熟睡していた」と知っているのでしょうか。
なぜ、個人が消えていても、「何かが続いている感じがずっとする」のでしょうか?
ここに、不思議な逆説が浮かび上がる
通常、「私」とは、思考や感情、身体の認識によって成り立っているものだと考えられています。
ところが、熟睡中はそれらの認識がまったくなかった。
なのに、「私は寝ていた」と知っている「私」がいます。
この「在りながらも、何もない」状態こそが、悟りと深く関係しているのです。
なぜなら、悟りの重要な入り口とは、この「純粋な存在」だからです。
「ただ在る」それが悟りの原点
悟りの状態とは、熟睡と同じように「ただ在る」この「純粋な意識」の状態を、
目覚めた状態のまま気づき続けている、ということです。
普通、「存在」と聞くと、個人としての身体や、身体感覚としての存在感をイメージするかもしれません。あるいは、オーラや影響力のようなものを存在感として捉える人もいるでしょう。
しかし、ここでいう「存在」とは「意識そのもの」のことを指しています。
- 思考や感情の背後に、変わらず存在している何か
- 覚醒、夢、熟睡、どの状態でも常に在り続けているもの
- 肉体感覚のような物質的なものではなく、もっと微細で目に見えないほど繊細なもの
その「存在」つまり、「在る」という感覚こそが、個人ではない原初の、個人を超えた「真のあなた」です。
これを直接知り、気づき、体験していくことが、いわゆる悟りの道です。
そしてこれを直接的に体感的に深めていくことこそ、悟りの道であり、境地の深まりであり、霊性の深まりでもあります。
悟りはゴールではなく、霊性のプロセスの始まりである
本当の悟りの道とは、情報や知識として「私は知った」「悟った」「はい、終わり」
というような、単なる頭の理解でもないし、
一瞥体験や神秘体験、不思議体験、至福体験などといった一時的な出来事で終わるものではありません。(それは素晴らしいものではあるけど)
体験コーナーの話ではなく、いつでも変わらずにずっとずっと気づき続けていることです。物語を超えた、もっと非人間的な領域のものです。
なぜなら意識自体が、非人間的な「何か」なのですから。だからこそ、悟りのプロセスは神秘的、あるいは神との接触、合一、霊性の道と言われているんですね。
私はあなたにこう伝えたいのです。
あなたはいつの日か「私は在る」という純粋意識に気づき、ここで言われていることに直接触れて、自己を知ることとなるでしょう。
そして、それを深めてゆき、安定して在り続ける状態が「覚醒を生きる」と呼ばれるものです。
さらにいずれその先には、
「悟った私」という感覚さえも手放されていく可能性があります。
個人がこのような霊性の道に入る過程や流れのことを、私は「恩寵」と呼んでいます。

まとめ
今回のポイントは、悟りは、選ばれた人だけの特権ではなく、誰もが毎晩経験している「熟睡」の中に、その本質はすでにある、ということです。
あなたはすでに最も身近な「それ」に触れています。
さて、この「存在」「意識」「気づき」という三位一体のテーマは、今後もさまざまな角度から扱っていく予定です。
これらは、はじめ難しく感じるかもしれないテーマですが、非常にシンプルなものです。
何度か読み返していただくうちに、あなた自身の中で個人ではない非個人の「在る」が腑に落ちてくるかもしれません。
続きはこちら 悟りとは一体なんだろう②

