意識と存在、気づきとの関係

はじめに

ようこそ、パラトゥリクスへ。 

情報社会の恩恵により、いまの時代、ネットをひらけばあらゆる情報が押し寄せてきます。 

時代を問わず世界中の思想、哲学、宗教、真理探究、悟り、非二元、スピリチュアル、潜在意識、心理学。こういった貴重な言葉や情報にも、機会があれば誰でも簡単に触れられるようになりました。

しかし、情報が増えたからといって、真理が分かりやすくなったとは限りません。むしろ、情報が多すぎるからこそ、概念が森のようになり、混乱し、迷子になり自分が何のために何をして何を求めているか、分からなくなることが結構あります。

それでも、かつての私のように、このテーマは、真理探究や悟りの道に入ると、必ず向き合うことになるものでしょう。

それが、意識の話です。

意識。これは、最も身近なものでありながら、最も説明が難しいもの

なぜ「意識とはこれだよ」と指し示すことが難しいかというと、

意識を説明しようとする時点で、

すでに意識はそこにあり、その意識が働いていなければ、説明そのものが成立しないからです(笑)

意識がなければ、意識について考えることもできませんし、意識がなければ、意識について語ることもできません。

つまり、意識とは、「すべての運動が起こる場」でありながら、その背後ですでに変わらず「在り続ける存在性」です。

意識と存在の関係

意識とは、存在性そのものであり、その中からあらゆる運動と変化が現れます。

意識は静けさとして在りながら、同時に、世界のすべての運動として現れています。

パラドックス。

存在とは一体なにか

あなたは存在しています。

でも、あなたはなぜ、「自分が存在していること」が分かるのでしょうか?

なぜなら、あなたは、あらゆるものに気づいているからです。

何かが見えているし、何かが聞こえている。身体の感覚があって思考があって感情がある。

あなたは気づいている。それこそが、あなたが存在していることを証明しているようなものです。

存在しているという事実は、思考よりも前、言葉よりも前、説明よりも前に、前提としてすでにあります。

ただ、在る。

ここに、意識と、存在が繋がる理解への入口があります。

意識とは存在でもあり、気づきでもある

あなたは、五感に気づいています。

聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚。身体の働きに気づいています。

時間。空間。思考。感情。想念。あなたは、これらの世界を成立させる概念たちにも気づいています。

意識とは、=存在でもあり、=気づいてることそれ自体でもあります。

あなたは毎秒、努力することなくあらゆるものに気づいています。

ここで一度、あえて、このテーマをこの世界に生まれたばかりの赤ちゃんのような気持ちで聞いてみてくださいね。

気づいているとは、一体どういうことでしょうか。

見えている。聞こえている。感じている。考えている。喜んでいる。悲しんでいる。不安になっている。安心している。これらはすべて、あなたの中に現れているものです。

そして、それらに気づいている存在があります。

気づきとは一体なんだろうか

気づきとは、認識とも言えます。

ただし、ここで私が言っている気づきとは、一般的な意味での「気づくこと」とは違います。

一般的には、「意識する」「気づく」という言葉は、ある時はなく、ある時に起こるものとして扱われています。

さっきまでは意識していなかった。けど、今それを意識した。さっきまでは気づいていなかった。けど、今それに気づいた。このように、限定的な働きとして語られます。

しかし、真理の文脈から見ると、それは意識そのものではありません。

その「〜を意識する」は、

意識の中で起きている一つの運動です。

意識で在りっぱなし、気づきっぱなし

真理の文脈での「意識」や「気づき」は、限定された行為ではありません。

ある時だけ意識するものではなく、ある時だけ気づくものではないということです。

意識も、気づきも、常に在りっぱなし、気づきっぱなしのものなんです。

あなたが何かに注意を向けているときも、ぼんやりしているときも、分かったと感じているときも、分からないと感じているときも、喜んでいるときも、苦しんでいるときも、意識はあります。

存在、意識、気づきは、あなたが何かをした結果として生まれるものではありません。

何かをするという行為のほうが、意識の中で生じているんです。

すべては意識の中で起こり、意識によって知られています。

みんなが思い描いている意識や気づきは、私という人間の動きです。

「私が意識した」という動きそのものも、意識の中で生じています。その「私が気づいた」という感覚そのものも、意識によって成立しています。

意識は、個人の所有物ではない

ここで、多くの人が無意識に持っている前提がひっくり返ります。

普通はこう考えます。

私がいる。その私が意識している。その私が気づいている。その私が考えている。その私が世界を見ている。

しかし、真理の視点では、ここを反転して見ます。

意識がある。その意識の中に、「私がいる」という感覚が現れている。
意識がある。その意識の中に、思考が現れている。
意識がある。その意識の中に、身体感覚が現れている。
意識がある。その意識の中に、世界が現れている。

つまり、意識は、個人の所有物ではありません。

私の意識、あなたの意識、という言い方は日常的には自然です。

しかし、真理の観点から見ると、個人が意識を持っているのではありません。

意識の中に、個人という感覚が現れているのです。

意識は対象ではない

さらにもうひとつ大切なことがあります。意識は、対象として見ることができません。

なぜなら、意識とは、あらゆる対象を知っている側だからです。

目は、さまざまなものを見ることができるけど・・

目は、空を見ること、文字を見ること、人を見ること、自分の手を見ることもできます。

けど、目そのものを直接見ることはできません。

鏡を使えば目の姿は見えます。しかし、それもまた、見られている対象ですよね。

それと同じように、意識はあらゆるものに気づいています。

しかし、いくら「意識のこと」をイメージしても、意識そのものを、ひとつの物のように取り出して見ることはできません。だから多くの人は、意識を見落とします。

私たちはいつも、気づかれているものばかりを見ているからです。

けど、真理探究では、その対象ではなく、対象に気づいているものへ向きを変えていきます。

見えているものではなく、見えていることに気づいているもの。考えの内容ではなく、考えが起きていることに気づいているもの。感情ではなく、感情に気づいているもの。

そっちへ向きを変えるのです。

意識は近すぎるから見落とされる

あなたは朝、目を覚ました瞬間から、ずっと意識と共にあります。 

あなたが意識から離れることは不可能です。

眠る前のぼんやりした時間にも、意識があります。夢を見ているときも、夢の世界に気づいています。

深い眠りから目覚めたあとには、あぁ、よく眠ったなと分かります。

近すぎるために、特別なものとして見つけることができません。だから、探そうとすると見失います。意識を、どこかにある何かとして探すと、必ず対象を探すことになります。

けど、真理探究者は、いずれ、自分自身の「直接の経験」として確かめる必要があります。  

何をでしょうか?

それは、意識こそが自分であるというシンプルで驚くべき事実です。

まとめ

あなたは、意識を持っている人間なのではありません。

本当は、意識の中に現れている「人間」という感覚を、「私」と呼んでいたのです。

だから、悟りとはガムシャラに何かを足すことではありません。本当の意味では、何かになることでもありません。

ただ、すでに在る意識としての立場に、ただ、静かに、回帰していくことなのです。

あなたの内なる探究に、至福と恩寵が降り注ぎますように。

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この記事を書いた人

パラトゥリクス管理人。真理探究、悟り、意識について書いています。

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