ゆるトゥリクス ① 真理探究にも、ゆるみが大切

ゆるトゥリクスについて

真理探究、霊性、神との合一の道は、古くから聖典や聖者たちの言葉の中で語られてきました。

けれど、それを実際に深めていく過程では、精神が何度も揺さぶられることがあります。

少なくとも、私自身はそうでした。

だからこそ、私は「ゆるみ」も大切だと思っています。

パラトゥリクスを立ち上げようと思った理由のひとつにも、それがあります。

真理や悟りを語る教師やガイドたちは、あまりにも高尚で、正しくて、完成された存在のように見えすぎていないか。

私はそこに、ひとつの違和感がありました。

悟りや霊性の話は、本来もっと根源的で、もっと直接的で、もっと生々しいもののはずです。

けれど世の中では、どうしても悟りや霊性が、「人格的に立派であること」「穏やかであること」「人徳があること」「いかにも聖者のように振る舞うこと」と結びつけて見られやすい。

もちろん、私はそれ自体を否定しているわけではありません。

探究者を安心させたり、信頼や意欲を高めたりするために、道徳的で高尚な姿が、ひとつの方便として働くこともあるでしょう。

けれど、悟りや真理とは、もっと大きなパラドックスを含んでいるものだと思っています。

悟りは、ただ清らかで、優しくて、穏やかで、誰からも好かれる人間になることではありません。

聖人君子のようになること。
マザーテレサやガンジーのようになること。
無私の善行に日々没頭すること。
常に上機嫌で、愛に満ちた人間として振る舞うこと。

それらを悪いと言っているのではありません。

ただ、それが悟りの目的地だと決めてしまうと、真理探究はとても片面的なものになってしまう。

親鸞は、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉を残しました。

善人でさえ救われるのだから、悪人ならなおさらである。

この言葉を、私は真理探究の文脈でも深く受け取っています。

仏の目から見れば、善人も悪人も、どちらも自我の中に現れている姿です。

「自分は善人である」と強く信じている人ほど、行為者としての私、性格としての私、記憶や物語としての私との同一化が強いこともある。

反対に、自分の中の醜さや矛盾を見ている人の方が、「なぜ自分はこうしてしまうのか」「本当に自分がやっているのか」「この行為者とは何なのか」という問いに入っていきやすいこともあります。

つまり、善人も悪人も、仏の目から見れば、自我、エゴにすぎない。

だから、真我実現したからといって、自我の性格が必ずしも神がかり的に清らかになり、誰からも好かれ、動物にまで好かれ、魔法が使え、空を飛び、テレポートし、常に満面の笑みで、裸に布切れ一枚をまとって洞窟で暮らすようになるわけではありません。

そういう聖者的な逸話や立ち振る舞いが、必ず起こるという根拠はありません。

それは、悟りに対するステレオタイプでもあります。

ただし、ここにもまたパラドックスがあります。

エゴ・システムからの解放が起きはじめると、人格的な変容や、行為の質の変化が自然に起こることは確かにあります。

穏やかさや、慈悲深さや、無作為の行為が現れることもある。

けれど、それは目的ではありません。

あくまでも、副次的に起こるものです。

真理探究とは、「私は身体と心である」という個の領域から始まり、純粋意識、全体意識、そして最終的には「絶対」という言葉すら届かない領域まで深まっていくプロセスです。

そこまで行けば、もはや「誰が気にしているのか」という話に帰っていきます。

私はできることなら、まだ体力や気力があるうちに、縁のある方々に真の自己へ目覚める方向へ案内いきたいという意思はあります。

正直に言えば、私にとってこの道は、突然うさぎの穴に落ちてしまったような、なかなかハードなものでした。自己探究の道は、まっすぐな一本道ではありませんから。

行ったり来たりを繰り返し、後退しているように見えながら、どこかで深まっている、それと同時にどんどん何も知らないことが明らかになる。そんな、不思議なシンプルさへと上昇する螺旋階段のような道です。

特に私の場合、ほとんどの時間を一人でやってきました。そういうケースは珍しくないと思います。

現代の日本では、真の自己、真理、この世界の意味といった話は、たいてい一人の胸の内で、孤独に、あるいは孤高に行われるものです。

周りの友人や知り合いに話しても、

真の自己?真理?この世界の意味?なにそれ?

となることが圧倒的に多いでしょう。

社会や世間は、恋愛、お金、仕事、家族、承認欲求、自己実現といった方向へ関心が向かいやすい構造を持っています。なぜなら夢を継続させる必要があるからです。

もちろん、それらを否定しているわけではありません。

ただ、真理探究という道に入る者は、その流れの中ではどうしても孤独なポジションになりやすい。

そして、パラトゥリクスの記事では、自我や世界の構造を解剖したり、純粋意識や絶対意識といった深いテーマを扱っていきます。

内容が内容なだけに、読む側にも、書く側にも、ある種のストレスや緊張が生まれることもあるでしょう。(もちろん時には気が楽になることもあるでしょうが)

しかし覚醒、目覚め、そして「あらゆるすべてを超える」というプロセスは、魂の奥底からそれを求めている人にとっては、なによりも深い関心のあるテーマです。

理解の飛躍が起こると、奥底からの喜び、楽しさ、ワクワクする冒険でもあります。

冒険。そうです。

けど、どんな冒険にも、ずっと山登りだけという時間はありません。

焚き火のそばで一息つく時間。
ぼーっと景色を眺める時間。
とくにテーマも決めず語り合う時間。
喜怒哀楽的な雑談の時間。

そういう「ゆるみ」の時間も必要です。

そこで生まれたのが、この「ゆるトゥリクス」です。

ゆるトゥリクス。ここでは、ちょっとゆるいテーマはここへ、私自身も少し肩の力を抜いて書いていきます。

「記事を書く」というより、日常の延長として、雑多に、なんとなく、明確な順序や構成を考えすぎず、バーって言葉を置いていく場所です。

「ところで、こう思うんだよね。」

と話すような場所です。

だから、同じような話が出てくることもあるかもしれません。

話が脱線することもあるかもしれません。

真理の話から離れて、ただの日記のようになることもあるかもしれません。

中学生のころ、真夜中に書いた手記を朝に読み返して、「昨日のテンションは一体なんだったんだ」と少しひやひやドキドキするようなものになることもあるかもしれません。

私は、真理実現とは「エゴや世界という強烈な緊張からの大緩和」でもあると思っています。
なので、そういう記事を置く場所も必要です。

というわけで、どうぞよろしくです。

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