探究のはじまりの記憶
皆さんの一番古い記憶は、どのようなものでしょうか?
はっきり覚えている人もいれば、曖昧で、断片的にしか覚えていない人もいると思います。
私の場合、一番初めに強烈に残っている記憶は、映像というよりは強い感情でした。まったく何もない景色の中で、叫びのような感情の衝動だけがあった。
それをどうにか言葉にするなら、「しまった。またやってしまった」というような、後悔にも似た念でした。
「また、やってしまった。またしても・・」
そんな感覚です。
何をやってしまったのか。なぜ、そう感じたのか。当時の私に分かるはずもありません。
けど、そんな後悔にも似た嫌悪感の記憶が、私がこの生に触れ、ゆくゆく真理探究に入り込んでからも、ずっと私の歩みを進めるために必要な強い燃料になっていたように思うんです。
幼稚園の頃
それで、次に強烈な印象で残っている、初めの頃の映像的な記憶は、幼稚園の砂場です。
砂場で遊んでいる自分を、どこか上の方から、あるいは周囲全体から眺めているような感覚がありました。
私はここにいる。
同時に、そこにいる私を見ている。
身体の中に完全に入りきる前のような、全体から眺めているような記憶です。
もちろん、当時の私はそれを不思議だとは感じていても、とても説明できる類のものではありませんでした。
ただ、後に真我実現したときに、
「あの記憶は、ただの思い出ではなかったんだな」
と、あらためて認識されたのです。
そして幼稚園のころ、もうひとつ、奇妙な出来事がありました。
一見すると、それはただの子どもの頃の思い出話です。園児たちの間で起こった、よくある噂話。
でも私にとっては、その後の人生にまで残るほど、妙な引っかかりを持つ出来事になりました。
それが、トイレの花子さんの話です。
トイレの花子さん
私が幼稚園のころ、「トイレの花子さん」という噂がありました。
有名なので、あなたも聞いたことがあるかもしれません。子ども特有の、他愛もない怪談です。
それで当時、私の通っていた幼稚園には大きな倉庫があったんです。運動用具やマット、跳び箱のようなものがしまわれている倉庫です。
その倉庫の扉にはガラスがついていました。
ある日、誰かがそのガラスに浮かんでいるシミのような、模様のようなものに気づきました。
ちょうどそのシミは、人のような形が浮かんでいたからです。
それが本当に、ガラス越しに何かが映った反射だったのか、模様だったのか、汚れだったのか、サビだったのか、一体何だったのか、今となっては分かりません。
でも、言われてみると、たしかに、なんとなく人の形のようにも見えたんです。
赤色と、青色。上が赤だったのか、下が青だったのか。あるいは、その逆だったのか。そこはぼんやりとしていて、今でもはっきり思い出せません。
でも、その色合いが赤と青だったことだけは覚えています。
ある日、園児のひとりが言いました。
「これ、お化けじゃない?」
その一言で、空気が変わりました。
それまでは、なんてことない模様でした。ガラスについた汚れか、反射か、サビのようなもの。名前のない染みのようなものです。
でも誰かが「お化け」と言った。
その瞬間、園児たちの間で、それはお化けになりました。
もちろん私も、面白がってそれを信じました。少なくとも私の心の中では、もうただの模様ではありませんでした。そこにたたずむ、謎のお化け的な存在に変わっていったんです。
怖かったけど、なぜか胸がドキドキしてその謎の模様に惹かれていました。
だから私は毎日のように、その倉庫のガラスを見に行きました。
そこにいる。本当に、そこにいるのかもしれない。いや、いる。きっと何かが、生きている。
そう思っていました。
当時、私の住んでいた地域では、子どもたちの間で「トイレの花子さん」が流行っていました。お化けといえば、花子さん。怪談といえば、花子さん。そういう空気がありました。
もちろん、その模様があったのはトイレではありません。体育倉庫です。小学校でもなく幼稚園です。
ある日、また突拍子もなく誰かが言いました。
「あのお化けさ、あれ花子さんだよ」
すると、園児たちは一気に盛り上がりました。そうだ。そうだ。あれは花子さんだ。
私は、それも信じました。
謎のお化けだったものに名前がつき、今度は花子さんになった。
今考えると、花子さんは小学校のトイレにまつわる怪談。けど、園児たちはそんな細かいことは気にしません。
誰かがそう言ったことで、みんながそう信じた。そして、私も大いに信じた。
正体不明のシミのような模様は、お化けというアイデンティティを与えられ、とうとう名前まで与えられた、しかも、全国規模で噂の「花子さん」になった。
さらにそれを園児たちみんなが信じたことで、その存在感は、私たちの心の中で少しずつ色濃くなっていきました。
当然、先生たちは、はいはい、という感じで、私たちの盛り上がりを大して相手にしていなかったと思います。子どもたちがまた何か言っている。その程度だったのでしょう。
ここまでは、よくある話です。
幼稚園児の怪談。ガラスに浮かんだ模様。赤と青の人影。それを花子さんと呼んで盛り上がる子どもたち。
それだけなら、何も不思議ではありません。
やがて、私は幼稚園を卒業しました。
幼稚園の花子さんの話も、日常の中で少しずつ忘れていきました。でも、よっぽど印象的だったのか、完全には消えませんでした。なぜか、ずっと気になっていた。
なんと、夢にも何度か出てきました。
あのガラスの模様、目の前の花子さんを見続ける夢。自分もトイレにいる夢。それだけじゃなくかなり怖い展開もありました。トイレの中で死ぬ夢。薄暗い個室。閉じた扉。空いた窓。まるい緑色の魂が窓から浮いて飛んで去っていく夢。逃げられない焦る感覚。
そして、赤と青が混ざったような模様。
あの人の形をしたお化けが、まるで私に何かを訴えている。何か言葉を発して、何かを差し出してくるような。
赤い石、そして青い石のようなもの。どちらを選ぶのか。どうするのか。まるでそう尋ねてくるような。
私には、それらの夢が、なぜか決定的に重要な選択を示しているような象徴的な夢に感じられました。
もしも、誤った選択をすると、あとで強烈に後悔することが、心の深いところでは分かっているような。
ということもあり、怖いというよりは、妙に離れない。
忘れたはずなのに、どこかでまだ気になっている。しばらく、そんな浮き足だった感覚が続いていました。
そんなある時のことです。
久しぶりに祖母の家に行ったとき、叔父さんがテーブルで新聞を読んでいました。
私が何気なく声をかけると、その新聞には、全国の子どもたちの間で「花子さん」がブームになっている、というような記事が載っていたらしいのです。
叔父さんは、それを読みながら私に言いました。
「へぇ、確か前にお前も言ってたよな。新聞に書いてあるくらいだから、花子さんってほんとにいるんだなぁ」
私はその言葉に強く反応しました。
「え、本当にいるの。やっぱり」
私は胸が高鳴りました。見せて!!そう思って、新聞をのぞき込みました。
読むと、たしかにそこには書かれていました。全国で花子さんが話題になっていること。子どもたちの間で都市伝説になっていること。体験談や目撃談の噂が広がっていること。
でも正直、そこまでは別になんてことはありませんでした。
ああ、やっぱりみんな花子さんの話をしているんだ。
そのくらいのことでした。
でも、私はある文字を見て、固まりました。
大きな見出しの横に、小さく、こう書かれていたのです。
「トイレの花子さんが子供たちの間で話題に」
そのあとに、小さな文字で、
「赤石、青石」
私は息が止まるような感覚になりました。
後から知ったのですが、花子さんにはいろいろな噂があります。赤い吊りスカートをはいた、おかっぱ頭の女の子とか、白系の色が嫌いで、赤系と青系の色が好きとか。そういった話はたくさんあります。
でも、「赤石、青石」という言葉は花子さん関連の話で聞いたことがありませんでした。
私の夢の中を除いては。
なので、私にとって、その「赤石、青石」というフレーズはただの怪談の情報ではありませんでした。
幼稚園の体育倉庫のガラスに浮かんでいた、あの赤と青。そして、夢の中で差し出された、赤い石と青い石。
誰かが「お化け」と言った。誰かが「花子さん」と言った。そして私は、それを信じた。
信じたことで、それは私の心の中で育っていった。ただの模様ではなくなり、ただのお化けでもなくなり、ただの花子さんでもなくなっていった。赤と青。赤い石と青い石。
それは、私の内側で、イメージで、夢の中で、何度も何度も繰り返される象徴になっていました。
誰にも言っていないはずだった。誰も知らないはずだった。
なのに、新聞の中に、それが当然のように書いてあったわけです。赤石、青石、と。
その文字を見た瞬間、幼稚園の倉庫のガラスと、夢の中の赤い石と青い石と、新聞の小さな文字が、ひとつに重なりました。
もちろん、ただの偶然だったのかもしれません。
何かの勘違いだったのかもしれません。
でも、少なくとも当時の私には、そうは思えなかった。
私の内側で繰り返されていたものが、外側の世界に現れていた。
内側だけにあったはずの象徴が、現実の紙面に印字されていた。
そのように感じたのです。
そのとき初めて、私は子どもながらに思いました。
「心の中で起きていることと、外側の世界で起きていることは、本当に別々なのだろうか?」
「もしかして、夢と現実は、どこかでつながっているのではないか?」
「この世界は、自分たちが思っているほど、固く確定したものではないのではないか?」
もちろん、そのときの私に、こういった具体的な言語化があったわけではありませんが、そういった感覚だけは残りました。
見えている世界は、ただ見えている通りのものではない
誰かの言葉によって、ただの模様がお化けになるし、名前を与えられたことで、お化けが花子さんになる。信じることで、それは心の奥に根を張る。
そして、心の奥で繰り返し見ていたものが、ある日、外側の現実に顔を出すことがある。
なので、花子さんは、私にとって、ただの子どもの怪談ではありませんでした。
夢と現実の境目に、小さなヒビが入ったような、その後の人生でも忘れられない出来事になりました。
そして、思えば、それが、私にとっての真理探究のはじまりだったのだと思います。

