真理探究者はどう生きるべきなのか?
私は探究者から瞑想とは、真我とは、
至福とは、意識とは、気づきとは、
明け渡しとは、何ですか?と聞かれたら
相手の自己知識の段階と、
エゴとの同一化の具合を見て、
自然と判断され、すぐに答えが降りてくるだろう。
あとはそれをどう伝えるかの表現の取捨選択だけである。
しかし、この「どう生きるべきか論」は、
ハッキリ言えば非常に迷惑な質問である。
まず第一に、真理探究の話と全く関係のないテーマであるw
真理探究は欲望追求の話ではなく、
個人の終焉の話である。
あなたは解脱したいのであって、
車輪をどう楽しく回っていくのか?
そこに関心が強い時点で、
まだまだオモチャ好きの性癖が根深く残っている。大人の探究者ではないのだ。
それでも「どう生きるか論」について語るなら、すべてカルマ次第だ。
その肉体はその肉体が自発的に動き続けるのだ。
また、五元素と3グナの運動次第だ。
そのため、全部を神に明け渡しなさい。
全部すべての世話している運動それ自身に還したら「どう生きるべき問題」はおしまいだ。
それ以外私には答えられない。
たとえどの聖者、賢者もそういう質問はまともに取り扱わないだろう。せいぜい、あなたに合ったマントラや言霊を唱えなさい、ぐらいだろう。
目を覚ましたら、どう生きるべきかを気にする私も、世界も、夢の戯言はすべて非存在だとわかるだろうから。
利己的、利他的な生き方
確かに、人を傷つけず生きれたらそれがなによりだ。
しかし、人を傷つけてしまうことは必ず起こる。幻想世界において完璧はないからだ。
確かに、すべてを愛して、すべてを赦して、生きれたらそれがなによりだ。
しかし、人間は、いや心は決して愛そのものにも、赦しそのものにも「なる」ことはできない。
つまり、愛とはなんだろうか?
全体意識だけのことを愛と呼びなさい。
ここに身体があるとしよう。
身体の中に無数の細胞がある。
身体は無数の細胞すべての存在や動きの
基盤である。その様が、その形相が、愛だ。
愛を知りたいなら愛そのものに至るしかない
それはすなわちあなたと世界は分かれておらず、
全体であり、全体を観照している絶対の領域まで、あなたは退却しなければならない。
真理探究者であるあなたは、
どう生きるかではなく、
あなたがまったく存在していないという
知識をどこまで完全に受け入れるかである。
あなたは瞑想するべきだ。
そして神に明け渡して自由に生きなさい!


