不滅の意識

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純粋意識という夢を観照している者

それ──真のあなた──永遠

これがおそらく「絶対意識」のカテゴリーの最初に記事となると思うけど、個人や世界の領域、全体意識の領域をも超えた、ほとんど言語化が至難になる領域へ踏み込んでいくことになるわけである。

エゴの「私のもの」という誤った同一化は、身体や思考だけに起きるのではなく、もっと微細で、もっと当たり前で、気づかれにくい場所で起きる。だから、この「絶対意識」のカテゴリーではさらに深く外すことになっていく。

“ 絶対”、これは文字通り、「すべての対立が滅している」領域を示している。

数字で言うなら、すべての数を最も引き切った形が「0」ゼロである。

純粋意識がちょうど、このあらゆる数字の潜在的可能性としての「0」のようなものだとするならば、

絶対意識は「0」を「0」だと認識する、その“ 認識者”さえも滅している構図なのである。

そのため、絶対意識は文字通り「究極的にあらゆるものの引き算」であり、言葉で「指し示し」を行う場合は、否定の形をとる。(ウパニシャッドなどではネーティ・ネーティという) 

それはまるで真の自己愛ゆえに全ての偽りを消滅させる決断のボタンが押されるような── そんなスタンスの否定なのだ。

なので、このカテゴリーは否定形の断片的、散文が増えざるを得ない。少し狂気チックな印象を与えるかもしれない。

しかし、主体と客体をも超えた「絶対」では「一体誰が誰に、何を、語るというのか」、といったレベルのため説明が説明として成立してしまった時点で、また再び余計な概念の連鎖を生み続けるかもしれないことを常に考慮しなければならない。

ところで、あなたは意識──純粋に在り続けている意識──この「在る」さえも超えている領域を、はたして想像できるだろうか?

その「私」は「私」すらも、ずっと永遠に知らない

真の主体である。絶対である、あなた(私)へ捧ぐ

(以下:個人の「私」→真の私)

あなたは、「それ」として、「それ」だけで在るために、あらゆる幻想、虚偽を否定しなければならない。

そして最終的には、否定し尽くしたことさえも、否定することになる。

「私」とは、身体ではない。

身体は、ここにある。身体感覚のような重さがあり、痛みがあり、呼吸があり、鼓動があり、動作があり、姿勢がある。ある時は若く、ある時は老いている。しかし、この身体のすべては対象として知られている。身体は決して主体ではない。身体は意識の気づきによって知られている。知られているものである。認識されている側のものは、私ではない。また、変化するものは私ではない。なぜなら私はずっと私だからだ。

私は、感覚ではない。

熱さが来る。冷たさが来る。快が来る。不快が来る。それらは来て、去っていく。変化するものは、私ではない。私とはずっと私なはずだ。私は、期間限定のものではない。

私は、思考ではない。

考えが起こる。判断が起こる。言葉が浮かぶ。イメージが流れる。記憶が再生される。それらは、どこからともなく現れ、どこかへ消えていく。思考は選べない。数秒後にどんな思考が起こるのかさえ、誰も正確には分からない。それが私だろうか。いや、コントロールできず、現れては消えるような変化するものは、決して私ではない。

私は、感情ではない。

喜びも、悲しみも、怒りも、不安も、虚しさも、期待も、ひとつの波として起こる。波は起こり、波は去る。波は、私ではない。感情的な圧力は身体と結びついている、感情は世界が全体意識が起こす一過性な反応に過ぎない。

私は、記憶ではない。

過去の私。傷ついた私。成功した私。失敗した私。誰かに愛された私。誰かを愛している私。誰かに見捨てられた私。それらがなんであれ、それは今、思考の中に映し出されている影である。もし記憶が私なら、記憶が書き換わったとき、私は私ではなくなるのだろうか。けれど、どれほど記憶が変わっても、私という感覚は残っている。影は、私ではない。私は物語ではない。なぜなら私は変化するものではないから。物語の開始前にも、終わった後にも私は不滅に在る。

私は、自己像ではない。

いい人。悪人。弱い人。勇敢な人。賢い人。要領の悪い人。霊性が低い人高い人。無知な人、悟っている人。まだ足りない人。野望を追う人、それらは、思考が私に貼りつけた名札である。名札は、私ではない。どんな役割も限定的なものにすぎない。いつの時代、テクノロジー、国籍、職業、すべて一時的な物語にすぎない。王だったり地下生活者だったりと季節の移り変わりのように変化する自己像や環境などは、私ではない。私は不変で不動だから。

私は、行為者ではない。

手が動く。言葉が出る。呼吸が起きる。思考が起きる。選択したという感覚が、後から現れる。行為は起きている。けれど、行為者はどこにも見つからない。月曜日に善行をし、金曜日に悪行をする、月曜日の善行を悪行と評されることもあれば、金曜日の悪行に感謝されることもある、行為は全体意識が五元素の組み合わせによって、それ自身の継続のために運動を行う。そのため、ミクロの行為はマクロの運動にすぎない。私は変化を知らない不滅の意識。全体意識さえ私という基盤により成立する波にすぎない。そのため、行為者は私ではない。

私は、探究者ではない。

瞑想している私。悟りを求める私。理解した私。まだ分かっていない私。明け渡そうとしている私。それらもまた、物語の中に現れた像である。像は、私ではない。探究は起きて、いずれ、ただ終わる。それらは五元素の運動に過ぎない。

私は、世界ではない。

人、物、時間、空間、出来事、社会、人生、時代。それらはすべて知られている。世界に生きている者で、世界を知らないものはいない。知られているものは、私ではない。私は動きを知らない。そのため、世界を知らないものこそ究極の私である。

私は、時間ではない。

私は不変で不滅のすべての基盤である。そのため、私とは過去でもない。未来でもない。今という感覚でもない。時間さえ、思考の中に立ち広がる。私ではない。私は時間という動きの概念にはじめて触れる前から、私として変わらずに在った。そのため、たとえ時間が消滅し、不成立になっても私は変わらず私である。なので、私は時間ではない。

私は、空間ではない。

私とは、ここでもない。あそこでもない。内側でもない。外側でもない。私と世界を分ける境界でもない。境界は、思考が引いた線である。場所や位置や距離感覚という思考が発生する前にも、そして後にも、私は非存在として存在する。宇宙空間が始まる前も、終わった後にも私は変わらず私のままである。そのため空間は私ではない。

私は、知識ではない。

知っている。分かっている。説明できる。正しい。間違っている。それらは増え、減り、疑われ、崩れ、また別の形を取る。変わるものは、私ではない。思考は起き、感情は流れ、口から言葉は溢れる、思考と思考を比較比例し、説明が起き、身体は動作を起こす。しかし、私は行為者ではない。私はすべてが始まる前にも、終わった後にも、私として在る。そのため私は何も知らない。

私は、信念ではない。

私はこうだ。世界はこうだ。真理はこうだ。そのような確信さえ、握られた思考である。握られるものは、私ではない。そのため究極的な真理とは、語り手も受け手もなく、真理も伝え手も探究者も消滅し、誰にも知られることのない花、として花として、ただただ在り続けるだけである。「  」真理が真理であるなら、何の手を付け加える必要があるのだろう?そのため真理は信じようが信じなかろうが真理なのである。そして、それが私である。

私は、修行ではない。

瞑想でもない。探究でもない。明け渡しでもない。手放しでもない。それらがどれほど神聖に見えても、時間の中に起きる行為である。五元素の運動は新陳代謝をする。細胞が増えたり減ったりするように、とどのつまり瞑想も迷走も、聖も性も邪も俗も絶対的には同じところからの派生の違いに過ぎない。しかし、相対的に、真理実現する者の多くの流れは修行者という場合が圧倒的に多い、ということである。何であれ、修行前から、また修行後も、私は私であった。そのため私は修行ではない。

私は、悟りではない。

悟った私でもない。悟っていない私でもない。一瞥でもない。サマディでもない。至福でもない。光でもない。神秘体験でもない。経験には始まりがあり、終わりがある。始まりと終わりがあるものは、私ではない。

悟りは人間が悟ったという変化を表している、私は人間として、身体や心が自分だ、という同一化が起こる前から私としてあった。そのため私は悟りでも、悟ってないでも、人間でも、人間じゃないでもない。ただ、定義不能な主体も対象も超えた究極の主体として、私はただ在る。

私は、観照者でもない。

観ている感じ。見守る感じ。距離を取る感じ。気づいている私という、微細な感覚。気づき──それさえ、現れている。現れているものは、私ではない。私は、究極的に気づきでも、認識そのものでも、あらゆる意識でもない。私は在るさえ、私は在るという微細な気づきがある。気づいている。ただ在る。認識の認識──。

そのように呼ばれるものさえ、何であれ、最後には知られている。究極的にはすべての知られているものは、私ではない。不可思議「  」

最後の最後に否定できない「それ」

ここで大切なのは、否定は嫌悪を持って行なってはいけないということである。 

事実として、冷静な眼で見極め、識別し、否定することである。結果的にはそれは、ただ、誤認が静かに落ちることである。

否定──これは戦いでも抵抗でもない。返却である。

身体を身体へ返す。感覚を感覚へ返す。思考を思考へ返す。感情を感情へ返す。記憶を記憶へ返す。物語を物語へ返す。世界を世界へ返す。探究を探究へ返す。そして、このような気づきさえ、気づきへ返す。

すると、何かが残る。それが「  」である。

それは何かとして見えるものではない。何かとして語れるものでもない。だが、さらに深く見れば、その「ただ在る」さえも、最後には私ではない。意識さえ、私ではない。それでもなお、消えないものがある。在る、とさえ言えないもの。

意識が現れる以前からあるもの。 

身体が現れる以前からあるもの。 

世界が現れる以前からあるもの。

その時、直接的に明らかになることは、私は、世界の流出を知らない。宇宙の流出も知らない。意識の誕生も知らない。ただ在ることさえ知らない。それでも、それは失われない。ということ。

それは無ではない。有でもない。二元でもない。非二元でもない。夢でもない。目覚めでもない。熟睡でもない。第四の状態でもない。絶対でも、超越でも、意識以前でもない。ということ。

それらの名さえ、すでに現れたあとのものだからだ。

私は、それらを知らない。

私は何も知らないということさえ、私は知らない。

そして、この知らなさの底に、パラトゥリクスのすべての記事の始まりと終わりがある。

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