世界はなんの素材でできているか?

世界の素材のついて

序文


世界は非存在なのにもかかわらず、意識のスクリーンによって写し出されている。

そのため、非存在でありながらも素材は意識である。

そのため非存在は同時に存在でもある。

2の無い「絶対」へ安定するまでは、「自我意識」の本質は「自我なき意識」であり、純粋意識であり全体意識であることに安定しなさい。

意識を知ることが探究者にとって霊性の入門になるためだ。


そのため、意識を知らない者は、まずは意識を知るように。

物事には大局(マクロ)と小局(ミクロ)がある。
ここでは、細かい細部の話。たとえば、〇〇〇〇年なぜ、世界にあのような出来事が起きたか?
という話ではなく、大局、マクロの視点から世界についての話をしていこう。

この世界の根源、下地、素材はなにで出来ているか?

結論からいえば、これはすべて、
意識が見せる夢である。

現実と呼ばれているものは、ちょうど、あなたが夜眠って見る夢と同じだ。


夢見の方が想念が微細で固定観念も微細になる。


目覚めて見る夢は粗大で質度の濃度の高い想念が動き回る、そのため、種類が違って感じられるかもしれないが、どちらも心の潜在的傾向というフィルターを通した、

心、想念の具現化である。

意識が映写機だとしたら、フィルムが潜在的傾向である。


それを映し出して映像と運動が休むことなく動き回る。

そのため、個と世界、つまり、エゴの視点から心を純粋性に変えていくために、


福音書でも書かれているとおり、心の潜在的傾向の習慣を、別の習慣に変えていく必要がある。

真理探究者のあなたが劣悪な心の暴走や、環境で苦しんでいるのはなぜだろうか

理由は2つしかない。

ひとつは、真理や、悟りを追求する、何かしらの修練を開始する流れに入ったからだ。


そのため、余計なマーヤ(幻想)や、外側の追求に無駄な時間を費やしたり、
また真理側ではなく、マーヤ側に種蒔きをしすぎないよう
世界や真理への流れが、外側への誘惑を抑え制限している可能性がある。

ふたつめはカルマだ。

夢の中には夢の中のルールがある。

そのそれがカルマだ。

カルマは夢の中のルールとして、あるいはシステムとして相対的に存在する。

真理や悟りの流れに本格的に入るために、個は洗礼を受けないといけない。


個はこれまで無数の個を体験して来た。
個の心の潜在的傾向は過去の夢に巻かれた種の結果である。それは行為者の″私″として同一化している結果である。


潜在的傾向の浄化として、行為者がクリーニングされているのである。クリーニングとは真実の光のシャワーで勘違いという名の汚れを洗い落とす現象である。あなたは行為者などではないからだ。

その汚れが、デトックスとして世界の現れとして一時的に映し出されている。


これは夢に過ぎない。しかし、偽りが剥がれなければ、霊性の自己へ還る流れや機会がいくら来ても、エゴが抵抗してうまく機能しないからである。

すべては夢に過ぎないとはいえ、
個は、心や現れたちをとてもリアルに感じるだろう。慈悲はそのために起こる。

ここで福音を置いていこうと思う。

あなたがいかに悪夢を観ていようとも。

すべて、ただ、過ぎ去る。
永遠に苦しむことは不可能である。
永遠に幸せを固定することが不可能なことのように。

つまり、それは、必ず過ぎ去る。

あなたは行為者などではない以上、何の責任も真相的には無い。しかし、夢の中では相対的にあなたがいい種を蒔くには意志や努力がいる。このパラドックスは生じてしまう。

どちらも正解だ、しかし、どちらも越えなさい。

習慣は根強い。

しかし、どれほど根深い習慣だろうと、

真の自己探究を一歩一歩深め、それに伴いエゴを溶かす習慣を増やしていきなさい。

あなは疑いを払い続ける必要がある。

信じる力が弱いのではない、疑いがあまりにも根深いだけなのだ。

いずれは大きな収穫になるだろう。

意識はあなたが真のあなたとして実現することを応援している、しかし意識は、エゴという抵抗勢力も同時に支え動かしている。

そのため、意識は応援しながらも邪魔しているとも言えるのだ。

そのため、やはり非常に強い覚悟がいる。

炎が燃えるように。

そのため、洗礼や浄化が起きるわけだ。
あなたは聖なるものへ強烈な関心を持つ必要がある。


それが正しい霊性プロセスのはじまりであり、

霊性の道はマインドの娯楽やおままごとなどでは決してない。

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