起きている時、夢を見ている時、熟睡している時
この3つの形態はいつまで続くのか
あなたの日常を振り返ってみてほしい。
正直に、あなたに何が起きているかを描写するなら、表現するなら、それは、
・起きているとき(目覚めているとき)
・眠っているとき(夢を見ているとき)
・熟睡時
「これらの運動がかわり代わり起きている」と答えるだろう。
もちろん、さまざまな展開の物語や、
ドラマが起き現れてみえるかもしれない、
しかし、この3つの形態が呼吸のように繰り返すこの構造に対して納得していただけるだろう。
さて、目覚め・夢見・熟睡。
この3つの形態変化。
それはいつまで続くのか?
これは一体何度繰り返し続けるのだろうか?
この話のテーマは、目覚めること、覚醒すること、つまり、本当の自己を発見する″意味″とはなにか?
涅槃、悟り、ニルヴァーナ、解脱。その価値とはなにか?
このような問いへの答えでもある。
もちろん、真相的立場「絶対」からすれば、
「ただそのような流れが起きたから」
それが本当のところである。
理由や意味は?
これらは個と世界を成り立たせている心があるから問えるのである。
つまり、「思考者と思考」に過ぎない。
また、全体意識からすれば、
なんであっても、ただ起きているからだ。
それは個と世界からすれば、運命といってもいいし、今世のカルマといっていもいい。
しかし、全体意識からすれば、宇宙的物語のプロセス、同時に五元素の運動にしかすぎない。
さて、あなたが、個人、つまり私とは個人であり、
「身体と心である」
このようにそれと同一化して、錯覚していたら、
なぜ自分は真我探求、真理探求、悟り探求、目覚め、霊性探求しているのか?
なんの目的でなんの価値があってこの道を進んでいるのか気になってしまうのもまた人情であろう。
当然、その個の気質やカルマ、人生ストーリーの出来事や展開によって、さまざまな動機理由が挙げられるだろうが、
たしかにその視点から見れば、個のあなたは◯◯という理由から自己探究が始まり、
至福の絶対を知りたい、あるいは、偽りのエゴを消滅させたいという強い願いが生まれたのかもしれない。
同時に、個のあなたは世界を見渡し、
世界の多くの個人にとってはそのような願いは全く興味がわかず、偽りの″私″と非存在である夢の中をただ、より良くしよう。そのこと以外関心がなく、そのためだけに動き回っているように見えるかもしれない。
つまり、この孤高な道をなぜあなたは歩いているか?
なんの価値があって歩いているのか?
ここで、あらためて、3つの形態はいつまで繰り返すのか?
答え。これは無限に繰り返すのである。
だからこそ、解脱、涅槃の意味や価値は、
この構造が、放っておけば時間の問題でいつか終わるわけじゃないからだ。
これは決して放っておけば勝手に終わることなど、不可能なのである。
だからこそ、ある種の個は命懸けで自己探究に励むのである。
″私″という偽りのあなたと、
″世界″という偽りの夢が、
″絶対(意識)″の中で消滅しない限り、
目覚め・夢見・熟睡の運動は永遠に繰り返すのである。
個人である、あなたは死んだら終わり、停止なのではない。
無知な心はまた動くからだ。
本当は、誕生と死さえもが、夢だ。
しかし、無知な心は夢に巻き込まれ続けるだけである。
そのため、あなたは、エゴの非存在を徹底的に知り、絶対意識(呼び名はなんでもいいが)
それこそ、真の自己であった。
つまり、個や世界、純粋意識や全体意識さえも、非存在だった。この立場に至らない限り、
終わらない夢を繰り返し続けることさえも知らないまま、繰り返すことになる。
だからこそ、
「真実を探究することで、私の人生や私になんの価値・メリットがあるんですか?」という、
質問に優しく答えるなら、
おおむねそのような構造だからこそ、
それでも良ければ、真実など知らなくても構わないよ。と私は言わざるを得ないだろう。
また、真実を決して知りたくないような個人を捕まえて、私の話を聞きなさいなどと発言することも無いだろう。
この話は、
永遠の繰り返しの中で、
発心(真理実現をしたいという炎)が起きた個人にだけ説かれるべきだからだ。
つまり、縁のあるものは自然とこれらの言葉に触れると、決して見てみぬふりはできない。
そういう意味で、パラトゥリクスは、
発心者以外、目にも耳にも頭に入れても、
左から右へと言葉は虚空に消えていくわけである。そして、それは致し方ないのである。
現在は、霊性が減衰しているカリユガの時期である。
それでも、霊性が高揚しようと減衰しようと、
真実を探究する個人は決して滅びないのである。
合掌。

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