あなたはこう思ったことありませんか?
どう考えても、AよりBの方が自分のためになるのになぜかAを選んでしまった。
あとになって振り返ると「あのとき、どうしてあんな選択したんだろう」と自分でも不思議になる。
これを「まあ、そういう運命だったから」と一言で終わらせることもできます。
が、ここをもう少し掘り下げてみましょう。
ゲームの中へ
あなたがゲームをしているとします。
画面の中には、あなたがコントローラーで動かしているキャラクターがいます。
ここでさらに少し設定を加えて、そのキャラクター自身にも自己意識があるとしましょう。
ゲームをちゃんと成立させるなら、まずそのキャラクターに「私はこのキャラクターである」と思っていてもらう必要があります。
たとえば「あれ? 本当に自分はこの自分なのか?」「そもそも、なぜこの世界の中に自分はいるんだ?」「この身体を動かしているものはなんなんだ?」と、キャラクターがそんなことばかり考えていたらゲームがゲームとして少しおかしなことになってきます。
シンプルに目の前のミッションに挑んだり、マネーや経験値を集めたり、他のキャラクターと交流したり、レベルを上げることに集中できない。
コントローラーを握っているあなたも「いや、そこは暗黙の了解でキャラとしてやっていってくれよ。一体何見せられてるんだ」となるかもしれない。
ゲームには、ある程度の真剣さが必要です。
勝ち負け。あれが欲しいという意欲やこれは失いたくないという守るべき何かが。
もし、本気になってコントローラーを握っているあなたに向かって誰かが横から「君、ずいぶん熱くなっているようだけど、これゲームだからね?」と言ってきたら水を差された感じがするでしょう。
ここで一度見てみたいのは、なぜゲームにこれだけの真剣さが生まれるのか?ということです。
ゲームは画面をただボーッと眺めているだけなら、まだ関心の多くはこちら側にあります。
画面の向こうで起きていることは自分とは全然関係のない何かにすぎない。でも、何度もそこに触れて参加して体験しているうちに昨日よりも得るものや発見がある。自然と課題ができるので比較するものもできる。
そのうち理想や目標のようなものがだんだん形になってきます。
「これはどうしてもやりたい。欲しい」「このままそれを諦めるのは絶対に嫌だ」
そうやって価値がつき始めます。すると、さっきまで軽く持っていたコントローラーをいつの間にか握りしめている。
そして面白いのは、ここからです。
最初はプレイヤーとキャラクターでは、かなり感覚が違うものです。
ゲームを始めたばかりの頃、キャラクターが敵に邪魔されてもプレイヤーは「まあゲームだし」としか思わない。
倒されても「はいはい、もう一回」で済みます。でも、そこにいろんな価値がつき始めると「なぜこうしたいのに、思い通りにならないんだ」とかなりモヤモヤしてきます。
さらに最近のゲームでは、現れる敵がただのコンピューターではなく、向こう側でもちゃんとコントローラーを握っている別のプレイヤーだったりします。
ただの敵キャラに倒された時でも感情は浮かび上がりますが、相手が人間だと知ると、
「今の絶対この人狙ってやっただろ」とか、「私に何してくれるねん!」となってくる。画面の中で起きていることなのに急に「私と相手」の話になっていきます。
キャラクターが勝てば自分も同じように嬉しくなります。キャラクターのことはどんどん自分そのものみたいになっていく。
それでも、キャラクターにとって一番いいことを、プレイヤーがいつも望んでいるとは限りません。
キャラクターにしてみれば、たとえば安全な方が良くてできれば傷つきたくないし簡単に楽に過ごしたいだけかもしれない。
でも、コントローラーを握っているプレイヤーからすると、それだけじゃ物足りません。
あえて危険な場所へ行ってみたいし、勝てるかわからない敵と戦ってみたい。わざわざ面倒な選択肢を選んでその先に何があるのか見てみたい。必要なものを手に入れるためなら同じような地味な作業を時間をかけて何度もコツコツやることだってあります。
なぜならそれがゲームの醍醐味だから。
現実世界では味わえないような刺激や体験、景色を見てみたい。
ここでAとBという二つの選択肢が現れたとします。
キャラクターにとっては、どう考えてもBを選んだ方が楽です。
むしろAを選ぶと面倒なことが起きます。その代わりイベントは増えます。予想外のことが起きて感情が動き、そこからまた話の続きが生まれます。そしてそのように真剣になっている時ほど妙に「私の現実」がはっきりし、すごくリアルな出来事に感じられます。
では、このようなプロセスを何度も何度も繰り返していったらどうなるのでしょう。


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