前回の「私ゲーム ①」では、ゲームの中に価値が生まれて、そこから次々と続きが生まれていくところまで書きました。
では、それを長いあいだ繰り返していったらどうなるのでしょう。
ゲームというものは、なかなか私たちを退屈させてくれません。
飽きそうになれば、週ごと、季節ごと、年に一度の大型アップデート、さらに数年ごとにはゲームそのものが大きく変わるような更新まで入ります。人生も似たようなところがあります。
仕事が変わったり、人間関係や環境が変わったり、新たな展開が始まったりする。何かを失えばまた別のものが興味深く見えることもあります。
そのたびに未知の発見がある。だからまたコントローラーを握ります。
ところが、このゲームを長くやっていると妙なことが起きてきます。
新しいアップデートが来ているはずなのに・・どこか知っている。
登場人物も場所も出来事も違うのに、「あれ、これ前にも似たようなものやらなかったっけ?」という感じがする。
欲しいものができてそこへ向かう。そして必ず思い通りにならないことが起きる。感情が動く。そしてまた別の行動が始まる。
最初のうちは一つ一つの出来事しか見えていません。でも何度も何度もプレイしていると、その奥にある構造そのものが少しずつ透けて見えてきます。
ゲームの内容というより、ゲームとプレイヤーがどう動いているのか。何かに価値を見つけ、そのたびに喜んだり苦しんだりしてまた次の何かが現れる。
アップデートされているのは確かなのに、既視感のような、だんだんと同じものの焼き増しにも見えてくるわけです。
そこで少しずつ、
飽き
が生まれてきます。
考えてみれば、これは少しおかしな話です。
ゲームに飽きるためには、それなりに長くそのゲームをやっていなければなりません。
始めてから数日目の人より、長い時間プレイしてきた人の方が「またこれか」と気づきやすくなります。
つまり飽きが深くなる頃ってのは、かなりの古参プレイヤーでもあるわけですね。
そして古参であるということは、それだけ長いあいだこのゲームに身を捧げいろんなものを集めて、失って、覚えて、何度も何度もコントローラーを握り直してきたということでもあります。
だから妙なことが起きます。
もう構造はだいたい知っている。ゲーム運営会社から新しいアップデートが来ても、どこかで似たものを見た覚えがある。そのため昔自分が新参プレーヤーだった頃と同じようには夢中になれない。
それなのに、逆に新参プレーヤーよりも長く握ってきたゆえにコントローラーを簡単には手放せません。
退屈そのものが苦しいというより、もしかすると苦しいのはこっちなのかもしれません。
もうどこかで飽きているのに、身体や心に深く染みついている何かが、続きを気にしている。
もう随分マネーや経験値を貯めて、欲しいものは前ほどないのに、上には上がいるので他のプレイヤーよりもさらに増やそうとする。
たまにふと、ゲームの中でやけに晴れた空を見上げればもうやめたいような気もする。
でも、アプデの前日になると次はどんな展開が起こるかと想像するのはワクワクして楽しい。
このような葛藤が、退屈をただの退屈では済ませなくしているように思います。
こうなると「退屈」という二文字も少し妙に見えてきます。
語源とは関係なく遊んで読むなら、
退屈とは「退いて、屈する」。
散々いろんなものを見て、触って、体験したあとに退きたくなる。ところが、いざ本当に退こうとすると長く続けてきたゲームの方へまた引っ張られる。
退屈が苦痛になるのは、静寂の中でこの矛盾や葛藤の動きに出会うことへの抵抗があるからなのかもしれない。
つまり退くことそのものが辛いのではなく、退くことに屈するからこそ退屈は辛いものとして見えてしまうのかもしれない。
「何も起きていない状態」これにそのままくつろぐことが意外なくらい難しい。
思えば私たちは、ずっと「いつかくつろぐため」に何かをしてきたのかもしれません。
これが終わったら。もう少しマネーを貯めたら経験値を増やしてレベルを上げたら。この問題が片づいたら。
いつか全部終わった先で、ようやくゆっくりできる、と。
*
そんなことを考えていると、私はある王様の話を思い出します。
ある王様が世界を旅していました。
その途中で、あまりにもボーッとしている一人の男を見つけます。
王様は世界中でいろんな人間を見てきましたが、その男だけは妙に雰囲気が違いました。
気になって話しかけます。
「私はこれこれの国の王だ。あんたは何者だ?」
男は答えました。
「わしは、ただボーッとしてるだけじゃ」
「いつもボーッとしてるのかね。やることはないのか?」
「やることがあればやるさ。それが終われば、こうしてくつろぐ。あなたも一緒にどうじゃ?」
「いや、私にはまだやることがある。それが終わったらくつろぐさ」
「何をするんだい?」
「まず、これこれを叶える」
「そのあとは?」
「そのあと、ようやく長年の野望だったこれこれを楽しむ」
「そのあとは?」
「自分のことが落ち着いたら、今度は家族や周りの部下を楽にしてやるんだ」
「そのあとは?」
「そこまでは考えてなかったな。そうだ。最終的には人類すべてを楽にしてやる」
「壮大じゃな。で、それが終わったら?」
「その頃にはもう生きていないだろう。でも、できれば天国に行きたいものだ」
「天国か。それはさらに壮大じゃな。で、そのあとは?」
「ようやくその時、あんたみたいにゆっくりくつろげるだろうね。なにせそこは天国なんだから」
「なるほどね」
男はしばらく黙っていました。
それから王様に言いました。
「私は王であるあなたと違って、ごく普通の人間じゃ」
そして少し笑って、
「でも、私はもう、あんたの最後の願いを叶えておる」
*
では、この男のようにすでにくつろいでいる者は、ひとりのキャラクターとして人生というゲームの中でいろんなことを体験したりできるのでしょうか。
ええ、もちろん可能でしょう。
それがその者に起こる運命なら、起こるでしょう。
Aを選ぶこともあれば、Bを選ぶこともあるでしょう。
何かに我を忘れるほど夢中になることもあれば、退屈することさえあるでしょう。
何かを愛し、築き、何かを失い、ときにはひとつの世界が終わったように感じながらそれでもまた新しい続きを作ることもあるのかもしれません。
それでもその者のもとでは、くつろぎの中でいろんな展開が続いていくのでしょう。
そのくつろぎは、まるで文字が書かれていくことそのものを成立させている、空白のページのようなものなのかもしれません。


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