前回のまとめ
ようこそ、パラトゥリクスへ。
この記事は創世記①の続きになります。
前回、認識が起こる以前には「世界を認識するあなた」も、「認識された世界そのもの」も、まだ存在していなかったという話をしました。
けど、ある時、何かが起きた、と。
だから今この人生と世界があるわけですね。
この世界が現実なのか、幻想なのか。
その討論に深く入る前に、まず認めなければならないことがあります。
それは、現実だろうと幻想だろうと、呼び名はなんにせよ、あなたには今、この世界が目の前にある。
そして、それが「現実」だとして感じられ、
強いリアリティをもって動き回っているように感じられる。
神話は、「この世界の突然の始まり」のことを創造と呼び、
科学は宇宙の始まりをビッグバンとして説明する。
聖典や古い伝統なんかは、それをロゴスとか、OUM(オーム)という音、振動、言葉「はじめに言葉ありき」などとして語ってきた。
だけど、ここで重要なのは呼び名問題ではなく、
それが爆発、創造、幻想、なんであろうと、
重要なことは、「分離」という、この二元的な揺らぎの発生だということです。
分離のはじまり
あなたは突然、世界を放出した。
何もない「 」から、意識が生じ世界が現れた。

そして、私はここであなたに考えてみてほしいことがあります。
この「創造」は、誰かに命令されたわけでも、
あなたが「意図」して起こしたわけでもなかったということです。
このことに注目してほしいのです。
だってそうじゃないですか?
この天地創造は、前もってあなたに計画や目的があったわけでもなく、
あなたが決断したわけでもなく、
あなた以外の誰かがスイッチを押したわけでもなく、
なんの前触れもなく突然、これらの現れは起きたわけです。
当然、一般的に、たとえば医学的見方をするなら、これは父親の精子と母親の卵子が受精して、受精卵が細胞分裂を重ねた結果、胎児として発生し、
この世界に対して生誕したという説明になるでしょう。
あるいは、宗教的価値観の持ち主なら、聖典などに書かれているように「神が創造した」と考えるかもしれない。
それらは、そうなのかもしれません、
けどある意味では、そうとも言いきれないのです。
世界があり両親がある。
だからこそ身体が発生したということは言えます。
しかし、前回の記事でもいったように、
「究極のあなた」「真我」としてのあなたは、時間や、空間というものが生じる前に、
それ以前に「在る、存在」なのです。
あなたが両親を認識したのも、結婚してあなたを産んだ話を聞かされたのも時間や空間が生じた後です。
それと同じように、かの神でさえ、限りなく偉大ではあっても、時間や空間が生じた後の、
相対的世界での概念を通して認識できる何かです。
ですよね。
つまり、両親も、神も、時空の領域の内部でこそ、認識し、語ることが可能になる対象的、客体的な現れということが言いたいのです。
では、なぜ起こったのか
ここで私は、ひとつの矛盾(パラドックス)を挟まなければなりません。
本当は、「あなたが世界を放出した」という表現さえ、相対的にはそのとおりですが、
究極的には正確ではないんです。
なぜなら、真のあなたは、やはり先ほども言ったように「原因と結果」ということを可能にする「時間と空間の領域」を超えている。
しかし、原因と結果が成立するためには、必ず時間と空間が必要になる。
だから、時空以前の領域では、「なぜ起こったのか」という「問い」そのものが消滅し、途中で絶たれてしまう。
そのため私は、結論を、こう表現せざるを得ない。
それは・・
ただ起こった。
・・
「ただ」──これは因果を超えた点を指し示す
この「ただ」という言葉は非常に深遠な言葉です。
これは深遠すぎるほど深遠なので、
私は今後何度も何度もこの「ただ」を説明することになるでしょう。
「ただ」──これは「原因と結果」の大元である「時空の領域」を超越した、絶対意識の領域の言葉を指しています。(パラトゥリクスでいう絶対・超越カテゴリーのフェーズでってわけです)
「ただ、起こった」
そう。たしかに、分離の始まりは確実に、「起こった」 世界の放出、創造は「起こった」
しかし、〇〇という理由で起こった、のではないんです。
だってあなたは本音を言えば、「私は突然始まった」と言わざるを得ないとおもいます。
ただ始まった。因果なく。
「ただ起こったのです」つまり、その「ただ」の領域では「起こる─起こらない」という相対的な因果が成り立たないということなんです。
時空の領域さえ超えているからこそ。
だからこそ、真我実現もまた、「ただ」実現してしまう。
悟りもそう、小悟や中悟までは因果という努力が必要。
しかし大悟は「ただ」起こる。
なぜ?真我や悟りは時空を超えた領域の自己に至るということを指します。
それは因果を超えているから、です。
つまり、なぜ──という議題が成立しない。それでも起こる。
だから恩寵。
不可思議な奇跡だからこそ、恩寵と呼ばざるを得ないのです。
そして実現したら直接理解されることがあります。
それは、真我の見地からすると、
あらゆることは、ただ起こったと同時に、
まったく何も起こっていない。
このように言うことができるんです。いや、こう言わざるを得ないんです。
パラドックスを、同時に含んでいるわけです。
そして究極的な真理を表現する時、なぜ言葉では無理で、それは沈黙や静寂を通して表現されているのかというと、
分離の揺らぎは──起こっていない──から、です。
これが「絶対・超越」の立場です。
まとめ
私はサイトの管理人として、アイデアが湧いたり身体が動く故に、こうして記事を書いているわけですが、
パラトゥリクス的な本質的な言い方をするならば、すべては全体意識が起こしており、
五元素の運動エネルギーが循環し、ただ、書くことが起きている。
もちろん、書きたいという気持ちが起き、書いている。
それと同時に、意識がただすべてを動かしているんです。
そして「絶対・超越」の真我からしたら、
一切合切、何も起きていない。
もちろん、もっと正確に言うと「起きていない」ということさえ、知らない。
そう表現せざるを得ません。
なので、個の誕生についても同じことが言えます。
分離は起こった。だから、個があり、世界がある。でも、分離は起こっていない。
だから、本当は真理の状態は失われていない。
この聖なるパラドックス(矛盾)を抱えたまま、物語は次へ進みます。
起こっていないはずの分離は、やがて身体に結びつき、名前に結びつき、記憶に結びついていく。
そして、ついに「私」という感覚が形を持ちはじめる。
次回は、意識がどのように身体と同一化し、「私はこの身体である」という夢が始まっていくのかを見ていきましょう。
あなたの内なる探究に、至福と恩寵が降り注ぎますように。
つづく。創世記③

