前回のまとめ
個としての意識が始まる以前、世界を認識するあなたも、認識された世界そのものも、まだ存在していなかった。
けれど、ある時、そこで何かが起きた。
神話はこれを創造と呼んだ。科学はビッグバンと名づけた。聖典はそれを、ロゴス、振動、言葉として語ってきた。
だが、ここで重要なのは呼び名ではない。それは爆発や創造というより、
分離の揺らぎだった。
分離のはじまり
あなたは突然、世界を放出した。 何もない「 」から、意識が生じ世界が現れた。

けれど、その「創造」は意図されたわけでも、あなたが意図したわけでもなかったはずだ。
計画も目的もなく、つまり、誰かや何かが決断したりされたわけでもなかった。
神が創造したのではないか?そう思うかもしれない。
なるほど。それは、ある意味では正しい。だが、ある意味では、そうとも言いきれない。
なぜなら前回でもいったように、究極のあなたは、時間や空間以前に在る存在だからだ。
神でさえ、限りなく偉大ではあっても、時空の領域の内部で語られる存在である。
では、なぜ起こったのか。
ここでひとつパラドックスを挟まなければならない。
本当は、「あなたが世界を放出した」という表現さえ、相対的にはそのとおりだが、
究極的には正確ではないのである。
なぜなら、真のあなたは、やはり「原因と結果」ということを可能にする時間と空間の領域を超えているからだ。
原因と結果が成立するためには、必ず時間と空間が必要になる。
だから、時空以前の領域では、「なぜ起こったのか」という「問い」そのものが消滅し、途中で絶たれてしまう。
そのため私は、それをこう表現せざるを得ない。
ただ起こった。
この「ただ」という言葉は非常に深遠な言葉である。
そして「起こった」
そう。たしかに、確実に、「起こった」のだが、やはりその領域は「起こるー起こらない」という時空の領域さえ超えているからこそ、
ただ起こったと同時に、まったく何も起こっていない。
このようにも表現せざるを得ないのである。
それをふまえたうえで、
「起こっていない」を前提として話を進めていっては、
沈黙に続く沈黙の記事になってしまう。(なぜなら何も起こってないのだからね)
それではこのサイト自体、そして真理探究うんぬん。
何もかもが消滅してしまい、成立しないので、ここは相対的世界では「起こった」という線で、
世界の話を進めていく。
種の発芽と物語のはじまり
さて、ただただ、真空が完全な無ではなく、微細な揺らぎを孕むように、完全性もまた、沈黙のままではいなかった。
この世界が起こった最初の瞬間、あなたはちょうど、深い熟睡の底から、少しずつ心が動き出していくのとちょうど同じように、その微細な気配を感じたはずだ。
そのとき、意識としてのあなたは、ただ在った。
たとえその内に投影された光の映像が現れていたとしても、完全に記憶に無いはずである。まだそれを認識する者や、見る主体は、存在していなかったためだ。あなたに物心がつく前、そこに分離はまだなかった。
あなたは「全体意識」そして「宇宙意識」だった。
全体と主体と対象と呼べるような区切りは無く。
見る者も、見られるものもなかった。
内も外も、上も下も、身体も心も、まだ分かれてはいなかった。すべてが無条件に許されていた。それは、なにもかもが、存在そのものへの愛として充満していた。
ところが、潜在的には、ある「種」がすでに備わっていた。
それは、記憶の残響であり、抑圧された感情であり、情念であり、欲の種でもあった。なによりもそれらへの切望。それらと離れ離れになりたくない、どこまでも沁み渡るような悲嘆だった。
その種が発芽したとき、意識は少しずつ身体と結びつき、時間と空間の中にふたたび自らを固定し始めた。
そして、パラドックス的に、この始まりが成立したと同時に、つじつまを合わせるように、瞬く間に、幾億の過去と未来が同時に創造された。
決して誰かと契約したわけではないが、強制的に組み込まれていく。

全体意識のあなた。宇宙意識のあなた。広大で、無限で、限界を知らないあなた。
そのあなたに、最大の悲劇、あるいは最大の喜劇が訪れる。
突然、あなたは無限から、点のような「その肉体」に棲家を決定され、結ばれていく。
あなたは、「この身体を私としますか?」と尋ねられたわけではない。
あなたは、人生という物語を始めるための契約書にサインしたわけでもない。
ただ、気づいたら、身体と同一化してしまい、ただ人生は映し出されていくこととなった。
まるでカフカの不条理な物語であり、同時に、胸踊る大冒険である。
とにもかくにも、条件が整ったとき化学反応が自然に始まるように、
分離はただ起きたのである。
名前という契約のしるし
はじめに名前が与えられた。あなたは「◯◯◯」という音と、少しずつ同化していった。
名前。名という、ことばの音。その音が何度も繰り返されることで、何度も目の前の身体に注目されることで次第に名前と身体が結びつきはじめた。
呼ばれるたびに振り向く身体の動作が、現象として何度も起こることで、
呼ばれる前にはなかったはずの「行為者としての私」が、少しずつ当然のものとして立ち上がっていった。そして、やがて記憶が発達し、身体の中で「私であり続ける身体感覚」が形成されていった。
世界は、風景、親の顔、声、表情、反応、身体感覚の重さや軽さを通して映し返された。
こうして、姿形のない無限の広がりであった全体意識であるあなたは、物質的な領域に宿り、肉体に物心を宿した。
身体は「私」。
身体以外は「私ではない」。
感情は私のもの。思考は私のもの。記憶は私のもの。人生は私のもの。
そうして、次第にあなたは「私のもの」を増やしていった。
そして、その分だけ、世界は自分ではない外側のものとして分かれていった。
他人は私ではない。世界は私ではない。身体以外は、私ではない何かである、というように。
果たして、これは間違いが、起きたのだろうか?
いや、なるべくしてなったプロセスだった。なぜなら、何度も言うようにあなたに意思決定はなかったのだから。
けれど、同時に、この瞬間から失われたものがあった。
分離以前の静寂。分離以前の満ち足り。分離以前の、理由なき安心感。
こうして、不足と恐れを中心にした偽の「私」が疑いの余地もないほど確実に設定された。
そして心、精神は、その設定を維持するために、世界を解釈し続けるようになっていく。
この物語は、熟睡時を除いて、今もなお休むことなく続いている。
しかし、あるとき物語は反転する
ところで、あなたは映画「マトリックス」をご存知だろうか。
モーフィアスがネオに、赤いカプセルと青いカプセルを差し出す、あの有名な場面だが。

- これまで通りの世界に戻る、か。
- 偽りの自分や世界は崩れ、本当のことを知る側へと運ばれていく、か。
真理探究とは、ある意味で、あの場面にとてもよく似ている。
ただし実際には、誰かに二つのカプセルを差し出されるわけではない。
しかし、人生の物語の中である日突然、自分の内側に問いが生まれる。
私は何者なのか。
私は本当にこの身体なのか。
この世界は、本当に見えている通りのものなのか。
このように、目覚めに向かう者には、いつの時代も似たような兆しが現れる。
空虚感。虚無感。閉塞感。異物感。疑問。既視感。問い。違和感。
それも内側の深いところからの違和感。
そのような問いや違和感が生まれた時点で、すでに目覚めの物語は始まっている。
あなたはまだそれらの感覚的想念を言語化できないかもしれないし、それはまだ弱く揺れやすいかもしれない。
しかし、もう元の眠りへ完全には戻れない。
なぜなら、一度でもそういった疑問が生じたなら、あなたは見て見ぬ振りはできなくなるからである。
しかし、個人は本当には選んでいない
ここで、私はまたしてもひとつパラドックスを挟まなければならない。
そのように探究に向かうことも、真実を求めることも、一見するとあなた、つまり個人の選択のように見える。
けれど、ほんとうはそうではない。
個人のあなたとは、それが確実に本物の私だとして自己保存を懸命に死守しようとする運動そのものである。
不足を埋めようとし、恐れから逃れようとし、変化させ、進化を求め続け、世界の中で自分を守り抜こうとする。
良い悪いではなく、それが個人の基本的な性質である。
つまり、そうである以上、個人そのものが、自らすすんで「自己イメージの消滅」に向かうことはできない。
つまり、ほんとうの意味で「真理」「真の我」「目覚め」や「覚醒」を選ぶことは、あなたにはできないのである。
では、誰が呼んでいるのか
では、誰がその扉を叩いているのか。
誰が、このイリュージョンのような、この意識の織りなす世界の中に違和感を送り込み、問いを生じさせ、真実へ向かわせ、目覚めへの道へ歩みを進ませるのだろうか?
続く

