「呪い」と聞くと、あなたは何をイメージするだろうか。
ある日、その人は信じていた相手に裏切られた。
家へ帰ると、その人は自分の子供にこう言った。
「人のことは簡単に信用するな」
子供には、その言葉が生まれた事情は分からない。
だが、のちの人生で、その言葉はしばしば脳裏をよぎることになった。
そのおかげで危険な相手や状況から身を守れたのかもしれない。
今度はその子供が親になった。
自分の子供へ同じ言葉を伝える。
しかしその子供が成長したのちの人生では、反対に人を信じる力を奪うものとして機能するかもしれない。
さらに何代も経てば、もはや、最初に誰が誰に、どんな状況や背景でその言葉を口にしたのか正確にわからなくなる。
また、言葉そのものは忘れ去られても、人を信じようとするたび「理由の分からない怖さ」だけが残って、そんな反応だけが受け継がれていくかもしれない。
その言葉は、どこまで生き延びるのか
ここで、たとえば最初に言葉を伝えた人を「A」とする。
その言葉を受け取った子供を「B」とする。
さらにずっと先に、その言葉が最初に口にされた理由を知らないまま、似た反応を受け継ぐ人を「X」とする。
「A」の言葉は「B」には直接届いた。
しかし「B」の子供やその先の世代は、同じ言葉を言われていなくても、人を疑ったり距離を取ったりする親の空気や反応を感じ取って同じものを学ぶことがある。
そうやって生まれた反応が別の人へ移って、やがて「X」にまで現れるのだとしたら。
当然、「A」は「X」の存在を知らないし「X」も「A」のことを知らない。
そもそも「A」と「X」には血縁関係もなく、国籍や人種さえ違うかもしれない。
このように長い歴史の中で、人から人へ伝わる影響は、一体どこまで広がるのだろうか。
この受け継がれていく反応は、個人的なものなのか、集合的なものなのか。
ひとつ言えることは、
私たちは、それぞれ違う色の世界を生きているが、その心の恐れや痛みを奥へ奥へと辿っていくと、個別の色は少しずつ消えていくということだ。
その根本にある苦しみは、驚くほど共通していて、ある意味では、とてもシンプルにみえるということだ。
一つの音叉が鳴ると、同じ高さを持つ別の音叉まで震え始める。
ちょうどそれと同じように、誰かの中にある痛みが別の誰かの中に眠っていた痛みを揺り起こすことがあるのかもしれない。
互いに直接関わったことがなく、時代も場所も種族さえ違ったとしても。
守るための言葉が、未来を奪う時
ここでふたたび「呪い」の話に戻ろう。
誰かの言葉や働きかけが別の人に届いて、その人を長いあいだ縛り、悪影響を与える場合、私たちはそれを「呪い」と呼ぶことがある。
反対に良い影響を与えたなら「祝福、恩寵、恩恵」などと呼ぶ。
先ほどの「A」の言葉が「B」を危険から守ったならそれは祝福に見えるが、
その言葉によって警戒心が過剰になって、「B」が人を信じきれず、始まるはずだった喜びの機会を何度も失うとしたら、それは呪いに見える。
さらに、その影響を受け継いだ「X」がいて、本人を苦しめるならそれは、呪いの連鎖に見える。
ここで思うのが、誰かの言葉や影響が、祝福になるのか、呪いになるのか。
私たちは一体何をもって判断すればいいのだろうか。
幸運と不幸は、いつ決まるのか
中国の故事に「人間万事塞翁が馬」という話がある。
簡単に言えばこうだ。
ある日、老人が飼っていた馬が逃げてしまった。
周りの人々は同情して、気の毒がったが、
老人は「これが不幸だとどうして分かるんだ」と言った。
そしてしばらくすると、逃げた馬が何頭もの立派な馬を連れて戻ってきた。
周りの人々が「おめでとう。幸運だね」と祝福すると、
老人は「これが幸運だとどうして分かるんだ」と言った。
やがて老人の息子が、その馬に乗っていたときに、落馬して、脚を折った。
周りの人々は「これは大変な不幸だ」と気の毒がった。
だが、その後、戦争が始まると村の若者たちは次々に兵士として連れていかれる中、老人の息子は脚を折っていたから、戦争へ行かずに済んだ。
つまり、
「不幸」に見えたものが「幸運」へ変わり、「幸運」に見えたものが「不幸」へ変わった。
そして、その「不幸」に見えたものが、結果、息子の命を守ることにつながった。
この話の核心は「嫌な出来事の裏には、必ず良い意味がある」という教訓話というより、
「出来事に対する評価は、そのあと起きたことによって何度でも書き換えられてしまう」
ここだと思う。
私たちが一つの出来事を判断する場合、一体何を、どこまで見ればいいのだろう。
馬が逃げた時だろうか。
良い馬を連れて戻った時だろうか。
それとも息子が脚を折った時なのか。
戦争へ行かずに済んだ時なのか。
こうなると、その後の老人の人生だけじゃなく、息子の人生、また、二人が影響を与えたものすべて、下手したら、馬が影響を与えたすべて、またこの話を聞いた者すべて、最後の最後まで、すべて見なければならなくなるし、影響範囲は広げようと思えばどこまでも広げられてしまう。
要するに、幸か不幸か、良いか悪いかは、その場に現れた一場面だけを見ても簡単には測れないし、出来事の影響範囲を確実に知ることなんて不可能だということである。
だから「A」で始まったものが「B」に繋がった話も、
その先、形を変えながらどこまで広がり、どういう結果になるのか、正確にはなんとも言えないのだ。
私たちは、今見えているところだけで、結果が良いか悪いかを判断してしまうものだが、
よくよく見てみると、それが起きたきっかけも、今見えているものを結果と呼んでいいのかさえわからない。
実のところ、果てしなく不明瞭なのである。
わからないことは悪なのか
このように、私たちは出来事全体の意味を本当の意味では掴むことができない。
これは、なぜだろう。世界そのものが不明瞭だからだろうか。
それとも、出来事の影響がいつまでもずっと続いていて、判断できる地点までたどり着いてないからなのか。
それでも私たちの心には、判断したい、知りたい、定義したいという強い欲求がある。
それは、絶対に分からないからこそ、そう求めることをやめれないのだろうか。
そもそも、私たちは生まれてから、一度も完全な終わりというものが、現れたことがないからこそ、
本当の意味で、分かって、そのまま終わることができないのかもしれない。
もしそうなら、分からないという、不明瞭なこと自体が、本当に問題なのだろうか。
たとえば、あなたが大切な人と「七年二か月三日と二時間十七分六秒後」に別れることを、
その人と出会った瞬間に正確に知らされたとしよう。
砂時計の砂がどんどん落ちていって、全部落ちたら確実に別れてしまう。
この場合、果たしてそれを知ることがあなたにとって本当に良いことなのだろうか。
一緒に過ごす時間がどこか悲しみに染まり、別れの時が近づくほど、まだ一緒にいられる時間まで苦しくなるかもしれない。
未来を早く知ることが、いつも良いとは限らない。
その意味では、未知も同じで、
分かりづらさは時として配慮のようにも働く。
あらためて私たちにとっての呪いとはなんだろう。
問題は、もともとの意図が分からないまま影響を受けることなのか。
それとも、物事が終わるまでに「あまりにも時間がかかること」なのだろうか。


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