真我は、世界を見ている主体なのか
ここまで、世界、過去、時間について見てきました。
世界は、認識される前から完成したものとして、ただそこにあるように見えます。しかし実際には、世界は最初から意味や関係をともなって現れていました。
過去も「現在」とは別の場所に保存され、そこから取り出されているわけではなく記憶や証言、身体の変化や痕跡を通して「過去」として現れるものでした。
時間も、出来事より先に用意された容器というより、出来事や関係とともに経験されるものとして見えてきます。
「現在」さえも、最初からそこにある一点ではなく、出来事とともに生まれる区切りのように見えてきます。
すると、最後に一つの問いが残ります。
それらは、誰に現れているのでしょうか。
世界を見ている「私」
私たちは通常、世界があり、それを見ている私がいると考えています。
目の前に景色があって、音が聞こえ、何かを思い出す。そのすべてを経験している主体がいる。
しかし、その主体とは何でしょうか。
「私」と言う時、そこには何があるでしょう。
身体、名前、年齢、性格、これまでの記憶があります。「考えている」「選んでいる」「見ている」という感覚もあります。
そのどれも、自分で気づくことができるものです。気づくことができないものは、少なくとも今の自分の経験には現れていません。
たとえば、私は今どこかのカフェでこの文章を打っています。でも、あなたには私がどの店にいて、どの席に座っているのか、周りに何が見えているのかは分かりません。
それらは私の経験には現れていますが今のあなたの経験には現れていないからです。
同じように身体や記憶も「私が考えている」という感覚さえも、気づくことができる以上、あなた自身の経験の中に現れているものです。
世界だけではなく「私」と呼んでいるものも見たり感じたりできるものです。
では、本当に見ているものは何だろう。
すると、静かに見ている感覚や何にも巻き込まれていない観察者、純粋な気づきのようなものが見つかるかもしれません。しかし、その感覚に気づいているならそれもすでに見られている側です。
じゃあ、それを見ているものは何なのか。さらに探すと、また何かが見つかります。
そして、見つかったものもまた、見られている側にあります。
見ている主体を何かとして見つけようとする限り、見つかるものはどこまで行っても対象になります。
さらに見ると「主体を知りたい」「理解したい」という思いがあります。
「あ、これだ分かった」という感覚や「いや、まだ違う」という判断もあります。問いも答えも納得も迷いも、すべて自分の中で起きています。
主体を探している、「その動き自体」もまた「見られている側」にあります。
真我は、最後の主体なのか
ここで「真我」という言葉が現れます。
真我とは、世界を見ている最後の主体なのでしょうか?
もしそうならば、その主体も知ることができるはずです。でも知ることができた瞬間、それは対象になります。
つまり「これが真我だ」と捉えられたものは、すでに知られています。
知られている以上、それは「見られている側」だからです。
「世界」「過去」「時間」、そして「それを見ている私」
この四回の記事を通して最後に残ったのは、世界や過去や時間を「無い」とか「幻想」と決めつけて終わることではなく、
それらとそれを見ている私が本当に最初から別々だったのか。
その問いです。
世界を見ている主体だけは、本当に世界の外側にあるのでしょうか。


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