あなたはかぐや姫である ③ 五つの難題

かぐや姫にとって初めて、地上側から彼女の意志とは関係のない運命が入り込んできた。

他者の思いが彼女自身の生き方に侵入して、動かそうとしてくる。

ここで、彼女は世界や時代にもまた意志のようなものがあり、避けては通れぬことがあることを知り始める。

*

そしてかぐや姫の側からも動いた。

彼女は、男たちの志がどれほどのものか確かめようと五つの難題を出したのだ。

  • 仏が使ったとされる石の鉢。
  • 仙境・蓬莱山(ほうらいさん)にある宝石の枝。
  • 火に入れても燃えないという火鼠(ひねずみ)の皮衣。
  • 龍の首にある五色に輝く玉。
  • 燕が持つとされた子安貝(こやすがい)。

かぐや姫は五人の男たちそれぞれに一つずつ難題を与えた。

それを持ち帰ることができたなら結婚すると告げた。これらはどれも、普通に探して手に入るようなものではなかった。

五つの難題が映すもの

五人の男たちが求めているのは、かぐや姫と結ばれること。

ところが、そのためにかぐや姫から与えられた難題は、実はどれも月や真理の側を思わせるものだ。

私はこの求婚劇をこう解釈する。

かぐや姫をその人の中にある気づきや真理の記憶、内なる叡智として見る。

一方で五人の男たちを、その叡智を前にして動き出す自我や想念として見る。

この両者をそのまま精神内部に置き換えて見ると、
自我というものは叡智に惹かれる。

真理や自己の本性を知りたい悟りたいとも思う。
しかし、自我という「個の自分」のまま、それを手に入れ所有したいと思うものだ。

なので、最初はどうしても真理を自分の側へ引き寄せようとする形で探究が始まる。
そして、その叡智の方は真理と繋がっており、探究が進むにつれて今度は自分の方が真理へ寄せられていく。

ある意味で、ここでのかぐや姫は自我や想念に対しての「内なるグル」のような働きをしているとも言えそうだ。

天竺へ行かなかった男

最初の石作皇子は、仏の御石の鉢を求められる。

しかし、石作皇子は実際には本当に天竺へ探しに行くことはせず、古い寺にあった煤けた鉢を持ってくる。

「仏」は「涅槃(ニルヴァーナ)」であり「月」そのもの。

そして仏の御石の鉢は、月の側にあるものを地上へ持ち帰るという難題でもある。

しかし彼が持ってきたのは、それらしく見える古い鉢。つまり偽物だった。

「本物」ではなく「本物らしく見えるもの」を持ち帰り、自分が本物らしく見えるものならかぐや姫も同じように本物だと思うだろうと考えた。

これは、自我や想念が自分の認識の仕方をそのまま「真理とはきっとこうだろう」と当てはめてしまう動きでもある。

仏のイメージなら彼は持つことができる。

だが実際にそこに至れば、「そのイメージを持った彼自身」は溶けて残らなくなってしまう。

石作皇子が持ってきた煤けた古い鉢はとても本物らしく見える。だが、そこには光がない。

かぐや姫にはそれが分かる。

そして、それを見抜いたとき、かぐや姫自身の内なる月の感覚、真理の明晰さが表に現れた。

「私」という物語

次の車持皇子はこうである。

彼は蓬莱山へ行ったふりをして、職人に玉の枝そのものを作らせた。

彼が作ったのは玉の枝だけじゃなく、物語も作った。

「苦難の航海をして蓬莱へ辿り着き、命懸けでこの枝を持ち帰った」という話を。

厄介なのは、これが非常によくできていたことである。枝だけが精巧だったのではなく、彼は語り手としても技があった。

「私はそこへ行った。そしてこういう体験をした」と彼はかぐや姫に対して事細かに語った。

かぐや姫も一度は本物だと思う。

目の前にある現象と、その背後にある物語がつながった時、人はそこへ巻き込まれてしまう。

彼女はどうやってそこから抜け出したのか。

外から職人たちがやってきた。彼らは、この枝を自分たちが作ったこと、そして代金さえ受け取っていないことを全部明かした。

この騒動によって車持皇子の「蓬莱から命懸けで持ち帰った枝」という作り話は一瞬にして崩れた。

私はこのシーンに、内と外の叡智を見る。

かぐや姫の叡智をもってしても地上の物語に巻き込まれることはある。しかし、物語の外側から突然何かが入り込み、それまで本物にしか見えなかった世界を壊して明らかにした。

このとき現れた職人たちは私には恩寵のように見える。

彼らが現れた瞬間、かぐや姫は物語の外へ出ることができたのだった。

まことは何の影響も受けない

三人目の阿倍御主人は、火鼠の皮衣を持ってくる。

かぐや姫が疑うと、阿倍御主人は「唐にさえなかったものを苦労して手に入れたのだ。何を疑うことがある」と言う。

ここで原文の言葉を載せると、かぐや姫は自らこう言っている。

「この皮衣は、火に焼かむに、焼けずはこそ、まことならめ」

もし、火に入れても焼けないなら、それこそ本物だ、というわけである。

ここで注目したいのは、この「まこと」の条件をかぐや姫は誰かから教えられたのではなく、彼女自らが当たり前のように口にしたことである。

かぐや姫の叡智は知っていたのだ。本物は燃えない、と。

しかし。皮衣を火に入れさせると、すぐにその皮衣は燃えた。

「焼かれても変わらないものが、まこと」という言葉は彼女自身へも問いとして返ってくる。

「何ものにも影響されないものを私は知っている。それならなぜ自分は地上で起きることにこれほど強く影響を受けているのだろう」

この時にはまだ答えにならない。ただ、ずっと前から知っていた何かと、この「まこと」が響き合い、かぐや姫の中で何かが騒ぐ。

龍と人間

四人目の大伴御行は、龍の首にある五色の玉を求められた。

大伴御行は龍を倒し、その首から玉を奪おうとして海へ出る。ところが彼は嵐に遭い、雷に怯え、最後にはもう二度と龍の毛一本にも触れないから助けてくださいと祈る状況にまで追い込まれる。

まず、この五色の玉の象徴について。

私はこれを世界として見るなら、世界を形づくる「五元素(空・風・火・水・地)」として見る。

個として見るなら、「個を形づくる五蘊(色・受・想・行・識)」として見る。

面白いのは、その五色の玉が龍の首にあることだ。

私はこの龍を、五元素によって現れた世界も、五蘊によって現れた「私」もろとも、呑み込み夢を終わらせる破壊神の象徴として見る。

大伴御行は、海と嵐に呑み込まれ龍の力に怯えていく。

真理を手に入れようとしていた者が、「手に入れようとする自分」の終わりに直面する。

この破壊も表現はきついが実際には恩寵であり浄化である。

だが、彼が望んでいたのは龍を倒し五色の玉を手に入れたまま地上へ帰還することだけだった。

彼は白旗をあげて降参することになる。

かぐや姫もこの一件で、月の記憶がまた少し蘇り始める。

死との遭遇

最後の石上麻呂に与えられた難題は、燕の子安貝である。

彼は燕の巣へ登り、落下する。そして手に入れたと思ったものは子安貝ではなく、燕の古い糞だった。

そしてその後、彼は病み衰えて死んでしまう。

これまでの四人には、まだどこか失敗談として見られる余地があった。ところが五人目では、ついに死者が出てしまう。

初めて、「死そのもの」がかぐや姫の物語の中へ入ってくる。月では知る必要のなかった、生まれたものが衰え、消えていくという地上の現実である。

それまでかぐや姫は、そこにいることで翁たちを豊かにした。家には光が満ち、人を和ませた。彼女は幸福を与える側だった。

だが初めて、自分がここにいることで誰かが自分を求め、苦しみ、不幸になり、ついには死者までもが現れた。

ここで私は、かぐや姫自身にも一つの段階が来たと読む。

彼女は深いところで月を知っているし、内なる叡智と繋がっている。しかし物語を見ると、かぐや姫もまた地上で身体を持ち「個の私」として生きている。

地上に「私」として存在しているかぎり望もうが望まなかろうが関係は生まれる。そして関係が生まれれば、因果が動く。ここは月そのものじゃない。

かぐや姫はこの瞬間、自分も地上において影響を受け、影響を与える因果の一員になっていたことを知る。

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この記事を書いた人

パラトゥリクス管理人。真理探究、悟り、意識について書いています。

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