ようこそパラトゥリクスへ。
あなたが行ったことのない海外の国を思い浮かべてください。
アメリカでも、アイスランドでもスペインでも、詳しく知っている国でも名前しか知らない国でも構いません。
私たちは今その国を思い浮かべると、その国があることを知りますね。
そこには今も街があり人々が暮らし、昼と夜が巡りいろいろな出来事がたくさん起きていると思いますし、それを疑うことはありません。
地図にも載っているし写真や映像もあるし、ニュースでも見るし実際に行った人から詳しく話を聞くこともできます。
私たちは、その国を「世界のどこかにある国」として知っています。
さて、何が言いたいのか。
その国があるか、ないかという話じゃありません。
問いたいのは、これです。
「その国は、今この瞬間、あなたにどのように現れているのでしょうか?」
世界はそのまま世界なのか
私たちは、目の前にある世界を、世界として直接見ていると思っています。
でもさっきの話ではこうでした。
ある国を思い浮かべるとき見えているのは「国そのもの」ではなく、地図や写真、景色、映像、ニュース、誰かから聞いた話のイメージですね。
単純に、「それそのものではない」という話です。
色んな印象を含んだまま「一つの国」として知られます。
じゃあ目の前の世界はどうなんだろう?
国を思い浮かべる時のイメージとは違って、今目の前の世界はイメージを通していないように思われます。
しかし、目の前にある世界は、「世界」として本当に「それそのもの」なのか、
それとも、国を思い浮かべた時みたいに、色んな印象や記憶を伴って「目の前の、この世界」なのか。
どうでしょうか。
友人はいつ友人になるのか
あなたの目の前に友人が立っているとします。
私たちは、最初に「色」や「形」だけを見て、その後で「友人」と判断しているのでしょうか。
そうは感じませんね。
顔を見た瞬間、その人はもう友人です。
名前や一緒に過ごした時間、交わした会話やその人らしさ。
たくさんの記憶を一つずつ思い出してから「友人」になるのではなく、
その瞬間、ポンっと「友人」として成立して現れています。
世界は完成してから現れるのか
つまり、行ったことのない国も目の前の友人も、最初に意味のないものとして現れ、その後から意味が加わるようには見えません。
私たちは最初から意味や関係を伴った世界を経験しています。
ここで見たいのは「世界は幻想」とか「世界は存在するのか」って話じゃなくて、
「世界はどのように世界として現れているのか」です。
私たちが見ている世界は認識される前から今と同じ形で完成していたのか。
はたまた世界が現れる時に、意味や関係も同時に現れるのか。
そして、この話には「過去」も含まれています。
たとえば、五年間会っていなかった友人はその五年間、一体どこにいたのでしょうか。



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