会っていなかった五年間は、どこにあったのか
駅の改札を抜けると、少し向こう側で手を振る人がいます。
五年ぶりに会う友人です。
近づくと、「久しぶり!」とテンション上げて盛り上がります。
雰囲気はあの頃と変わらないけど、服装や話し方は前とちょっとだけ違います。
歩きながら友人は、この五年間にあった出来事を話し始めました。
転職して、地元に引っ越した。一時、病気で入院した、新しい恋人が出来た。
私たちは、それを「へぇーそうなんだ」と受け取ります。
私たちは、友人が会っていなかった五年間も生きていて、その空白の五年間について今話しているのだと受け取ります。
それは、日常のごくふつうの風景。
ただ、ここで一つ。
その友人の五年間は、今ここにどのように現れているのでしょうか。
再会した瞬間にここにあるのは友人の「五年間そのもの」ではなく、
目の前にいる友人の姿、声、表情、変化した見た目、言葉、そして五年前に別れた時の記憶です。
友人は、五年間を生きてきた人物として、今この瞬間現れています。
過去は、どこにあるのか
私たちは普通、過去はすでに完成したものとして存在していると考えます。
そして、記憶とはその完成した過去を思い出す手段だと考えています。
しかし、過去そのものを、現在から「切り離して」経験することはできません。
今この瞬間、ここにあるのはあくまで、記憶、記録、友人の言葉、情報、身体の変化、残された痕跡などです。
それらを通して、五年間は「すでに起きた出来事」として理解されています。
見ていない間も、友人は存在していたのか
すると、一つの問いが生まれます。
私が会っていなかった五年間も、友人は存在していたのでしょうか。
多くの人は、「当たり前じゃん。もちろん存在していた」と答えるでしょう。
私も、もちろん日常生活ではそう考えています。
ただ、その存在そのものを、経験の外側から確認することはできません。
私に与えられているのは、再会した友人です。
五年間を語る友人であり、その変化した姿です。
これは「友人は存在しなかった」という意味ではないし、「再会したこの瞬間に、友人が作られた」という話でもありません。ただ、五年間が「過去」として現れるのはいつも今この瞬間だという事実です。
過去は、現在の中にあるのか
では、過去は現在の中にあるのでしょうか。
そう言い切ることもできません。
過去は頭の中に保存されているだけだ、と言いたいわけではないからです。
現在と過去を、二つの別々の場所として考えること自体を見直してみたいのです。
会っていなかった五年間は、現在とは別の領域にある「保存室」に収められていたのでしょうか。
それとも、五年間が「過去」として現れる時、「五年間」という時間そのものも同時に現れているのでしょうか。



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