欲しいもの。物、者、モノ。
欲しかったものを手に入れる。
途端に、すぐ次のものが欲しくなる。
あまりにも当然にカチッと心がそのように動くものだから、実際、自分は心からそれを渇望していなかったのではと驚く。
本当にその物が欲しかったのだろうかと自身を省みると、当然、それについてはイエスと挙手。
だからこそ手に入れたらちゃんと「何かが足りない感覚」がしばらく止まる。
真に欲しかったものは「そのもの」か、足りない何かを探さなくていい時間なのか。
探さなくてもいい平和で静まった想念なのか。
欲しいものは、次々に替わるのに、「欲しい」という力だけはまったくブレずに同じ場所に残り続ける。
知っているから、欲しくなる
一度も食べたことのない味を、人は食べたいとは思わない。
ところが一度そのおいしさを知ると、目の前にないときにも思い出し、また食べたいと思うようになる。
人とのつながりもそうだ。一人で遊ぶことが当たり前だった子供が、ある日仲良しな友達たちの姿を見て知ると、その味わいを想像するようになる。
やがて、何でも話せる友だちができたとする。一緒に笑い、帰り道まで話し、明日も会えると思いながら家へ帰る。
ある日その友だちが遠くへ引っ越す。すると、同じ一人の時間は、以前とは違う色合いになる。
人が愛や安らぎを求める場合も、実は順序は逆で、愛や安心や安らぎをすでに知っているから、その不足に気づけ、求めることが出来るのではないだろうか。
愛をまったく知らないで、愛の不在を悲しむことは不可能だ。
その人のどこか深層で愛がすでに完成されてあり、その事実を知っているからこそではないだろうか。
帰る家を知らない人は、家へ帰りたいとは思わない。「帰りたい」という気持ちの中には、すでに家の記憶がある。
人が幸福を欲しがるときにも、それと似たことが起きている。
欲望は、手に入れた物を置き去っていく
魅力とは、「欲しい」なしには成立しない。
叶えて、手に入れて「欲しい」が消え去ってしまえば、昨日まであれほど輝いて見えた物が、ただの景色の一部になり、それを横目に、個人の意識はもう次に必要なものへ向かう。
もし欲望が忠誠を誓っているのが、特定の物ではなく「欲し続ける運動そのもの」だとしたら、物も出来事も状況も、欲望にとって一時の滞在先にすぎなくなる。
欲望はそこで「ゲットする」という用事を済ませ、物だけを残して次へ向かう。
手に入れることは到着ではなく、欲望がその対象を置いていく瞬間だったのかもしれない。その物はたしかに欲しかった。魅力も、手に入れた喜びも本物だった。
ただ、その本物へ、自分の不足を永久に終わらせる仕事まで任せていた。
足りない自分はいつ形になるのか
人は、ある物や状況や相手を、自分より高い場所へ置くことがある。その高さを作るために、自分の価値まで切り取り、そちらへ預ける。
すると相手は価値を持っている側になり、自分はそれを持たない側へ落ちる。
足りない自分とはなんだろう。一体何が足りないのだろう。
足りなさ。それは天性的なものなのか、後天的に生まれたものなのか。
生まれたときから、すでに胸の内にあったのか。以前に何かを失った瞬間、そこへ入り込んだのか。それとも、対象や相手を自分より高い場所へ置いたとき、その高低差として生まれたのか。
欲している対象と自分のバラバラが、ひととき一つになれば、そこへ預けていた価値が戻ってきたように感じる。その対象が去れば、消えれば、自分の価値まで一緒に連れていかれたように感じる。
対象そのものを求める気持ちと、対象に自分を完成させてもらおうとする気持ちは、一つの「欲しい」の中に混ざっている。
どこまでがその人や物を求めているのか。どこからが自分の足りなさを埋めるために求めているのか。
欲しがっている本人にも、その境目は簡単には見えない。
愛がなければ、こんなに欲しくならない
対象がそこにある時間の中で感じた安心は、本物だった。
心の琴線に触れる美しいものを前に、自分の中の欠けを忘れた瞬間もたしかにあった。
そこには満ち足りた安心と、完全性の愛の気配が漂っていた。
何も感じなかったなら、人は同じ人や物のもとへ、何度も戻ろうとはしなかっただろう。これほど濃密な悲劇も喜劇も生まないだろう。
ただ、人や物の中で触れた愛を、その形だけが持っているものだと思うと話が変わる。
「愛はある。ただし私自身にはない」と信じた瞬間、相手は愛を持っている側になり、自分はそれを求める側になる。
私は一体全体何の羅列を書いているのだろうか、この珍妙な話のテーマは。
ただ、あなた自身が愛であると言いたいだけなのだ。
完全な偽物なら、人はここまで追いかけない。
失うことのできない愛が、失われたものとして外側に現れる。
その愛を取り戻そうとして、「欲しい」は次々と形を替えていく。
欲望の通り道に、文明が残る
この運動は、一人の心の中だけで起きているようには見えない。
少しでも安全に長く生きたいという自己愛。寒さをしのぐ家、病を治す方法の試行錯誤。家族を飢えさせたくない、遠くにいる者の無事を知りたいという家族愛。
食料を保存し、物を運び、言葉を遠方へ届ける仕組みが発達する。見知らぬ誰かにも同じ苦しみを味わわせたくないという兄弟愛は、薬や知識や福祉を一人の持ち物から社会全体へ広げていった。
商売、統治、戦争、競争、利益。文明を動かしてきた「もっと」は、自分や大切な者を生かしたいという愛が外側で形になった。
その恩恵によって我々は生きている。欲望がなければ、今の便利な生活の多くも生まれていなかっただろう。
個人は欲しい物を得るたび次へ向かい、人類は一つの不便を解消するたび次の不便へ向かう。どちらも、達成したものを当たり前へ変え、その先に新しい不足を生む構造である。
個人の中では欲望と呼ばれ、人類の歴史では進歩と呼ばれている。
戻る場所を外側へ置き、自己愛へ戻ろうとする力そのものが、内側を欲し続ける運動になる。
こうして欲望は人を動かし、世界を未来へ運び続ける。ただ、その力の根にあるものは本当に不足なのだろうか。
その力の根にあるものが、音も形も痛みも快感もない、ただの静寂だとしても、あなたはそれを愛と呼べるだろうか。

