古代ギリシャに、シーシュポスの神話があります。
話はこうです。
神々を欺き、二度も死から逃れたシーシュポスは、死後、巨大な岩を山頂まで押し上げ続ける罰を与えられた。
彼は岩に両手をつき、山の頂へ向かって押し上げていきます。
汗で手が滑るたびに、シーシュポスは岩へ手をつき直します。足元の土を踏みしめ、身体ごと岩を押します。
「あと少し、もう少しで頂上だ!」と思ったその瞬間、岩は彼の手を離れます。
岩は重い音を立てて山肌を転がり、あっという間に最初の場所へ戻っていきます。
シーシュポスは山を下り、もう一度、岩の前に立ちます。
この神話は、どれだけ岩を押しても何も積み上がらない、終わりのない罰の物語として語られてきました。
たしかに、そう見えます。
人も毎日、自分にしか重さの分からない岩を運んでいます。仕事やお金、身体の不調が岩になる人もいれば、恋愛や家族をはじめとする人間関係、自分でもうまく言葉にできない不安を運んでいる人もいます。
やっと良くなって少し安心できたと思えば、また何かが起きます。これまで積み上げたものは残っているはずなのに、また同じ場所へ戻ったように感じることがあります。
霊性の道にも、また、岩があります。
悟りたい、目覚めたい、覚醒したい、本当の自己を知りたい。そう言いながら、人は岩を押します。
昨日、あの人を許せたと思ったのに、今日はまた顔を思い出して腹を立てています。
純粋意識が何か分かった気がしても、日常へ戻れば、さっきまでの静けさは簡単に揺らぎます。
世界は夢だと見えたはずなのに、請求書を開けば、一気にすべてが現実になります。
こうして、今度こそ頂上へ近づいたと思うたび、岩はまた落ちます。
そのたびに、なぜまたこうなるのかと嘆き、「まだ何かが足りない」と自分を責めます。
理解が浅かったのかもしれない。まだエゴが強いのかもしれない。もっと静かに、もっと純粋にならなければならない。
そう考えているうちに、次の課題が現れて手招きします。そうして再び岩へ手をつく。
何度も繰り返すうちに、少し妙なことに気づくことがあります。
山頂へ運ぼうとしていたのは、岩だけではなかった。
「これさえ成し遂げれば救われる私」という物語まで、岩と一緒に押し上げています。
岩を頂上へ置くことができれば何もかもが終わり、ようやく安心できる。
もう不安にならず、傷つかず、何も失わない自分と、二度と崩れない世界が待っている。
その自分と世界へたどり着くために、岩を押しています。
だから岩が落ちると、これまでの努力だけでなく、自分まで落ちたように感じます。
「・・ああ、また私が失敗した」
落ちたのは岩なのに、いつの間にか私まで麓へ落ちています。岩が麓へ着くより先に、岩を押していた「私」が、さっきまでよりもはっきりと現れます。
この神話を真我の側から見るなら、シーシュポスの罰は、岩を運び続けることだけではないんです。
「岩を運んでいる者だけが自分だ」と信じ続けること。
ここで見たいのは、その「失敗した私」がいつ現れたのかです。
頂上へ近づいているときには「もうすぐ救われる私」がいて、岩が落ちたあとには「また失敗した私」がいます。岩の位置が変わるたび、私についての物語も変わります。
けど、自分が存在しているという事実まで、その物語と一緒に上がったり落ちたりしているのでしょうか。
岩には頂上と麓があります。存在していること自体には、そのどちらもありません。
この神話には、もう一つの出口があります。岩を二度と落とさない方法を見つけることではなく、岩の上り下りで、自分の存在まで測るのをやめることです。
人は今日も岩を押します。生活をし、人と会い、眠り、また起きます。不安や失望が戻る日もあれば、思いがけない喜びや成功が訪れる日もあります。
岩を押すこと自体が、悪夢や罰になるわけではないんです。
岩を押している者だけが、自分のすべてなのだろうか。
見るのはそこです。
岩はまた落ち、暗い山肌を転がり、麓へ戻っていきます。
ところで、この話とは無関係に、真我は真我として在ります。
変わらず、ただ在るのです。


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