欲は悪いものなのか
ようこそパラトゥリクスへ。
心理学では、欲や、欲求は人を動かす力として扱われます。一方で、仏教では欲への執着が苦しみを生むと語られてきました。
では、欲深い人は真理から離れているのでしょうか?
欲求を自然に生きてきた
はじめに言うと、私は欲を抑えて生きるようなタイプの人間ではなかった。
友人から、「え、奔放で気楽そうで、自由そうなのに、考えごととかするんだ」と言われて、おいおい、そこまでか、と驚くほど。
振り返れば、私はマズロー的欲求を求めることは当たり前のことで、その欲求をできるだけ多く深く満たすことが、「幸せ」で、逆に言えば、満たせないことが「不幸」だと認識していました。

欲求は私の人生を程よくかき乱しながらも、人生をバイタリティーあるものにし、動かしてきた推進力でもあったんです。
真理にふさわしい人間になろうとした
真理探究に入った頃、私は色んな教えを学んでいて、その中に、欲望や執着を離れ、修練を続ける宗教的な探究者の姿が当然のように書かれていました。
性格も落ち着いていて、慎み深く物欲が薄く、生活が整い、ひたすら真理だけを求めているような人物像。
それと自分を比べたとき、私はあまりにも違うなと感じました。欲深く、騒がしく、世俗的で、煩悩だらけ。
だから、そうか、自分がなかなか悟れないのは、欲深いから?心が清らかではないから?
この人格そのものが真理探究に向いていない、ていうか適していないから?と、考えたこともありました。
それでも欲は勝手に激しく湧き起こる
すると、今まで感じたこともない、自己嫌悪が生まれ出しました。
「ああ、自分にはまだこんなに強い執着がある・・」と思う。
探究前なら、やりすぎた場合、単純に少し控えるだけ。ところが探究に入り、のめり込むにつれて、趣味への没頭、娯楽、欲の追求。
人生を変えようとする思いまで、すこしエゴにまみれたものに見え始めました。
たぶん私は、真理をなにか、極端なほど、あまりにも美しいものとして思い描いていたのかもしれない。
いや、そうしたかったのかもしれない。
清らかで、美しく、何にも汚されていない純粋なものがこの世界のどこかにはちゃんとある、と信じたかったのかもしれない。それは、今思うと、悟りや真理探究が、人間が新しく備えられる、身にまとえる何かだと思っていたからかもしれない。
私は次第に、人間が起こすあらゆる出来事や事件まで、エゴに見えはじめてしまったのです。
それは同時に、自分の中のエゴまみれさを見て見ぬふりするようにもなり、いつのまにか、無意識下で、多くの欲求を抑え、抑圧することもしばしばでした。
これが無意識下だからタチが悪く、本人は気づきにくい。でも、以前ならガンガン追いかけていたものをなぜか見送ったり、自分の反応を無意味に抑える。
ズレ感、不整合、そんな二律背反の違和感が生じていました。
でもそんな変化も、初めのうちはどこか嬉しかったかもしれない。自分は何か変わったかも。以前より人格が変わった気もする。自分は欲を克服したのかもしれないと感じ、意気揚々としていたこともありました。
抑えたものは、消えたわけではなかった
ところが、何かに落ち込んだとき、強がりが気の抜けたその瞬間、簡単に化けの皮は剥がれました。
押し込めていたものが、そこを狙っていたかのようにマグマのようにドバドバと噴き出しました。
次の瞬間、そこにいたのは、欲を暴走列車のように満たす自分の姿。
大リバウンドです。
そのあと、強い罪悪感と自己嫌悪が残りました。
そのサイクルは一度や二度じゃなかったんです。
抑える→変わったと思う→暴走列車→落ち込む→自暴自棄になる→ふたたび爆発する→自己嫌悪→抑える
私はこの振り出しに戻る循環を、無数に繰り返しました。
欲を裁いていたのは誰だったのか
そんなあるとき。
私はサバンナの大自然の動物たちのドキュメンタリー映画を見ていました。
腹を空かせた肉食動物が、草食動物を追いかけ。追われる方は必死で逃げ、追う方も食べるために必死で走る。
獲物を手に入れれば食べ、満腹になれば木陰で眠り、縄張りを奪い合い、戦い、異性を求め、子を守る。
そこには、生存欲求も、食欲も、性欲も、支配欲のように見えるものもかなり露骨に全部ある。
ただ、その動物たちを見ていて、ふと、気づきました。
ライオンは獲物を追いながら、「また欲に負けてしまった」とか「これは悪い欲だ」とも思わないし、食べ終えたあと、罪悪感で落ち込んだり、自分の人格を疑ったりしない。
欲が起きたあと、その欲を材料にして、己を裁き、自分へ判決を下しているのは、「人間だけではないか?」と思ったのです。
しかし、さらに見てみると、欲そのものだけではなく、「この欲を持っている私は駄目だ」と判断している者もまた、思考の中に現れていました。
欲を追う私と、欲を裁く私。反対に見える二人は、どちらも「私」という同じ中心を守ろうとしていたのです。
あれ?
私は真理を知りたかったはずだった。
なのに、いつの間にか、真理にふさわしい人物へ自分を作り替えようとしていたのでは。
向きが変わっただけだった
ところが、それで解決と終わったわけでなかったんです。
その後、欲や生命力を否定せず、人生を味わいながら真理へ向かう教えに出会いました。
はじめは救われた気がしました。でも、しばらくして疑問が生まれました。
静かな修行者になろうとした後で、今度は自由で大胆な人間になろうとしているだけではないか。
向かう方向が反対になっただけで、結局、自分を何者かへ変えようとする動きは残っていた。
なぜ、白か黒かしか選べないんだろう。いや、そうじゃない。なぜ、正解の定義を知らないままだと、こんなにも落ちつかないんだろう。
欲を追うことも、裁くことも
仏教では、中道という言葉がある。
快楽へ溺れることにも、苦行によって自分を痛めつけることにも偏らない道として語られてきました。
私は長いあいだ、中道とは、欲をほどほどに満たし、ほどほどに我慢することだと思っていました。つまり、バランスの話。すぎたるは及ばざるが如しの話。
しかし、自分の中で起きていたことを見ると、問題は欲の量やバランスの話だけではありませんでした。
もちろん欲のままに何をしてもいいという話ではありません。
欲求を追っているときも、抑えているときも、バランスを保っているときも、その中心には「この自分をどうにかしなければならない」という力がありました。
欲深い自分を満たそうとする。あるいは、欲深い自分を清らかに変えようとする。
「このままの自分ではダメである」という強烈な前提の構造でした。
私にとっての中道は、いつしか意味を変えました。
欲に従う自分と、欲を裁く自分。どちらかを正しいものとして握るまえに、その両方を動かしているものを見る。
欲が起きている。それを抑えようとする思考が起きている。
そして、そのすべてを「私の問題」として抱え込む動きが起きている。
ただ、それらの動きを見る。ここで何が起きているのかを見る。
いうなれば、聖なるジャーナリズム。
そこで何が起きているか、そのまま見る。知る。
それが私にとっての変革になったのです。
欲深い人は悟れないのか
欲求の強い人は、真理探究に向いていないのでしょうか。
今の私には、その問い自体が少し違って見えます。
欲求が強いか、弱いか。世俗的か、宗教的か。奔放か、慎み深いか。
そうした特徴から、その人の性格や行動について判断したり、語ることはできますが、
ただ、真理に近いか遠いかを、そこから測ることはできない。
私は当時、真理探究の問題を、人格改造の問題に置き換えていたんです。
欲深い自分を満たそうとすることも、清らかな人間へ変えようとすることも、方向が違うだけで、どちらも「この自分をどうにかしなければならない」という動きでした。
欲を消した先に真理があると思っていたこと自体が、私の勘違いだったのです。
欲深い人は悟れないのか。
今の私なら、欲があるかないかよりも先に、その欲を「私のもの」として抱え、裁き、真理から遠ざける原因だと決めている、その「私」を見るように言うでしょう。
問題だったのは、欲が起きることではありませんでした。
欲を持つ私を実在するものとして握り、その私を完成させようとしていたことでした。


コメント