時間は、出来事が入る容器なのか
私たちは普段、時間を一つの容器のように考えています。
時間[過去|現在|未来]
その時間の中で人が生まれ、数々の出来事が起こり、やがて人は死を迎えます。
時間という大きな枠が確固として前提にあり、その中を世界が進んでいくという理解をごく自然に抱いています。
時計やカレンダーも、前提にある時間を区切るものだし、歴史はその中に起きた出来事を並べています。
ただ、本当に時間は、出来事より先に存在しているのでしょうか。
ここで一緒に見たいのは、「時間そのものが存在するかどうか」より、私たちの経験の中で「時間がどう現れているか」です。
たとえば、自分の古い写真を見た時、私たちは写真の「紙」や「画面」だけを見ているわけではありませんね。
そこには、「昔の自分」の姿が写っています。
撮影されてから長い時間が経っている。あの頃の自分はもうここにはいない。
でも、写真の人物は今の自分と同じ人でもある。そのあいだにあった記憶や今日まで続いてきた時間まで、写真を見た瞬間にはすでに感じています。
写真を見たあとで、「これは過去だ」と決めて、意味を足しているようには感じません。
少なくとも、その写真を古い写真として見た瞬間、写真は過去を伴って現れます。
まだ起きていない未来も、似た仕方で現れます。明日の予定を思い出すと、待ち合わせの場所や、そこへ向かうまでの時間が、もう今の感覚の中にいつのまにか入ってくる。
私たちは、「出来事」は時間の中で起こると考えるものだけど、何かが現れる時よく見ると、そこには以前と以後、継続や変化、因果、未来への期待や過去の記憶などがセットで現れているように見えます。
現在という瞬間の中で、私たちはスマホをいじってニュースを知り、動画を漁り、色んな音楽を聴き、友人と色んな話をしながら、同時に過去や未来への想いまで慌ただしく抱え込んでいます。
つまり、私たちは、先にある「今」の中で出来事を経験しているように思うけど、何かが現れるたびにそれは「今起きていること」として現れます。
そう見ると、「今」も出来事より先に置かれた枠ではなく、出来事と一緒に現れている。
時間は出来事を外から包む容器ではなく、起きたこと、覚えていること、これから起きると思っていること。
そのつながりの中に現れるものなのかもしれません。
時間は、本当に容器なのでしょうか。
出来事や関係とともに、時間も現れている。
では、時間と出来事が一緒に現れるなら、それを経験している「私」だけはそれらとは別に存在しているのでしょうか。
それとも、その「私」もまた、時間や出来事とともに現れているのでしょうか。



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